第5回 鎌倉世界遺産登録推進に向けての
中学生作文コンクール 作品集
「武家の古都・鎌倉」の価値は何か?
鎌倉市青少年指導員連絡協議会
鎌倉世界遺産登録推進協議会
鎌倉市
作品集にまとめるにあたり、一部の年号標記等を漢字から数字にあらためさせていただきました。
(はじめに) 第5回中学生作文コンクールを顧みて
鎌倉市青少年指導員連絡協議会
会長 石井 英明
去る1月末、待望の日本政府からの鎌倉世界遺産登録正式推薦書がユネスコに提出されました。永い間、多くの市民と「鎌倉世界遺産登録推進協議会」の70を超える会員団体などが、
登録実現に向かって汗を流してきた様々な活動も、そのゴールがいよいよ1年後に迫って来ました。
青少年の健全育成という大切な役割を担う青少年指導員連絡協議会は、平成18年秋の推進協議会の発足に際して、私達の活動を通して鎌倉の世界遺産登録のための一翼を担うべくその会員となりました。
そしてその目的を実行するため、五里霧中で翌19年から中学生作文コンクールの実施に踏みきりました。
幸い、鎌倉市・市教育委員会・鎌倉世界遺産登録推進協議会・鎌倉ペンクラブ・市立中学校校長会・鎌倉市議会、そして何にも増して当初の想定を大幅に上回る延べ2,400名にのぼる中学生の皆さんからの応募に支えられて、
5回目の作文コンクールを実施することができました。例えようのない感動と喜びで胸が熱くなっています。
さて、過去5回の中でも今回のテーマ『「武家の古都・鎌倉」の価値は何か?』は、恐らく中学生にとっては極めて抽象的で、且つ取り組みづらいものだったことと思います。それにも拘わらず、いざ蓋を開けて見たら392名から内容の濃い作品が届けられました。
鎌倉市議会本会議場での表彰式の挨拶の中でも触れましたが、これまでの世界中の世界遺産登録活動の中で、中学生が作文コンクールに参加するという形で登録推進の後押しをした例は皆無であろうと思います。
今夏鎌倉を訪れるイコモスの調査団には、是非この貴重な活動例を大いにアピールして頂けるよう推進協議会にはお願いしたいものです。そして、25年度には日本中が鎌倉の世界遺産登録実現をお祝いできることを願っています。
しかし、大切なことは私達鎌倉市民が世界遺産としての「武家の古都・鎌倉」の価値を、いかに誇りを持って後世に伝え世界中に発信できるかにかかっています。
鎌倉の2,400名の中学生から寄せられた世界遺産登録に向けての若く熱い心を市民が一体となって受け止めて、次代に向けてつなげて行く努力が継続されますことを願って已みません。
(選評) 未来からの留学生が築く鎌倉の未来
〜第5回世界遺産登録推進中学生作文審査に寄せて〜
鎌倉市教育長
熊代 徳彦
世界遺産登録推進中学生作文コンクールも、第5回目を迎えることができました。これまでに参加された中学生は延べ数2,000名を優に超えています。今回も392点の作品が寄せられました。
大変にありがたいことだと思っています。今回はこれまでのテーマとは異なり、かなり抽象的で難しさを感じられたのか、焦点を当てるところに苦しんだ様子が審査に当たっていて感じられました。
これまでよりも若干応募数が減じたのも、その部分にも影響されたのではないかと思った次第です。しかし、いずれにしましても、どの作品からも皆さんの世界遺産登録へ向けての、それぞれの思いが伝わってくる素晴らしい作品ばかりでした。
恐らく何度も読み返しては、推敲を重ねられたであろう跡が感じられました。中には、中学生とは思えない洗練された表現もあり、澄んだ、鋭い思考が凝縮された作品に触れることができました。
ところで、今後更に一歩進めて、より奥深く世界遺産にふれていただくために、参考までに全体を通して感じたことを記しておきたいと思います。
一点目は、鎌倉の文化財の特徴を良く捉えて紹介していますが、ガイドブック的に紹介する内容に対して、自分の考えやそのように考える根拠が弱い文章が見られました。ポイントを絞って書く方が効果的であると思いました。
二点目は、歴史的事実かそれとも伝承かが不明で、もう少し文献などで確認してみる必要がある作品も目につきました。三点目は、「鎌倉の人々がこうするとよい」という第三者的な表現のまとめがいくつか見られましたが、
少し説得力が弱い文章になってしまった感じがしました。一歩踏み込んで、この点はこのようにするとこうなると、具体的な提言をした方が説得力を増すのではないかと思いました。
四点目は、細かいことですが「京の都」と「武家の都」の、この「都」の使い方について、同じ意味に使えるか否か、できれば調べてみるのもよいと思いま
した。
以上ですが、ここに載せられている作品は、どなたが読まれても納得のいただける内容の作品だと思います。世界遺産に因んだ作文の審査だけに特に誤字・脱字は当然のことながら、
歴史上の事柄については年代を正確に記しているか、歴史上の事実かそれとも伝承なのか、古き良き時代の面影が残っているのは例えばどのあたりを指して述べているのか等、そのようなところにも意を配りながら審査に当たらせていただきました。
ただし、テーマの捉え方が多岐にわたっていたために、5人の審査員全員が一致してこの作品、というのはありませんでした。そのくらいに苦労をした審査であったと言うことを最後に記しておきたいと思います。
どうかこれからもこの作文コンクールには多くの作品を寄せていただき、名実ともに市民の皆さんと行政が一体となって作り上げていく、守っていく、鎌倉の世界遺産であり続けたいと願っています。
その担い手となるのが、未来からの留学生と言われこれからの時代を築いていく、中学生の皆さんだと思っています。
「武家の古都・鎌倉」の価値は何か?
横浜国立大学附属鎌倉中学校 3年 古正 茉莉亜
武家の文化・生き様を表わす言葉に、「質実剛健」があります。質実剛健とは、質素ながらも中身が充実し、心身ともに強くたくましい様を言います。武家や禅宗に代表される鎌倉時代の気風を表現するのに、これほどふさわしい言葉はありません。
2011年3月11日の東日本大震災を機に、日本のすべてが変わったと言っても過言ではありません。日本はおろか世界中が、文明の発達に依存した生活を見直す必要にかられました。
物にあふれた贅沢な暮らしが当たり前となった世の中で、改めて命の尊さ、物の大切さを思い知る出来事でした。そんな今こそ、質実剛健を旨とする鎌倉の武家精神を、世界中に発信すべき時ではないでしょうか。
今年、岩手県の平泉が世界文化遺産に登録されました。それは「仏の住む極楽浄土」を表現する建築群が、後世に残すべき価値あるものと世界中から認められたことを意味します。
世界遺産に登録されるには、「人類が共有すべき顕著な普遍的価値」を持つものと認められなくてはなりません。それでは、鎌倉の普遍的価値とは何でしょうか。
アメリカのオバマ大統領は昨年サミットの合間に鎌倉の大仏を訪れましたが、この訪問は大統領たっての願いで実現したと聞きます。鎌倉の何が、オバマ大統領をそこまで引きつけたのでしょうか。
鎌倉の大仏は、「露座の大仏」として知られています。大仏殿は明応の大地震で津波により流されてしまいました。しかしそれにも関わらず、大仏様は風雨に晒されながらも、数百年前からの鎌倉武士の気風を私たちに教えてくれます。
建長寺や円覚寺といった禅宗寺院、また鶴岡八幡宮や切通などの歴史遺産も、戦争や災害の痕跡を残しつつ、質素で堅実な文化を現代に伝えています。環境破壊が叫ばれる今こそ、現代社会への警鐘として、
武家社会が伝承する人間本来の在るべき姿を世界へと発信すべきではないでしょうか。
東日本大震災により、自然をも支配できると考えていた人間の愚かさが明らかになりました。私たちはもう一度、原点に立ち返るべきです。鎌倉が世界遺産となることで、慎ましくも豊かな伝統に育まれた武家文化の素晴らしさを、
世界中に伝えることができるのではないでしょうか。
かつて鎌倉武士は、西国が中心だった時代に、東国で初めての幕府を自分たちの手で築き上げました。世界遺産登録に街が一丸となることで市民の団結力も生まれ、新しい時代の街造りもできるはずです。
形としての歴史遺産だけでなく、目に見えないながらも脈々と伝えられてきた武家精神こそ、古都・鎌倉が世界に誇る、真に価値あるものだと思います。
「武家の古都・鎌倉」の価値は何か
横浜国立大学附属鎌倉中学校 3年 池 言乃
八幡宮のてっぺんからは海が望める。眼下に一本、段葛が通る。左右の山からは緑が吹き出し、春などは時折、鶯が笑った。歴史の中の偉人もまた、同じ景色を見たのであろうか。
来歴を守ることが鎌倉を生かすということなのだとしたら、時代の最先端にいる私たちには「保護する」という選択肢以外に残されてはいない。
しかし、鎌倉の価値は過去ではない。歴史と現代社会の共存が「今の鎌倉」を創り上げている。ここでは中でも、三方山、という地形に焦点を当てて書こうと思う。この特徴ある環境が、昔と現代の生活にどのような影響を与えてきたのか。
また、“鎌倉らしさ”とは何なのか。この二点に絞って考え、武家文化をひもといていきたい。
もともと鎌倉は、三方を山に囲まれ一方が海に面していることから、地形に応じた独自の都市が形成されていった。周囲の山には稜線を掘り下げた「切通」という交通路が作られ、海上には日本最古の築港・和賀江嶋が築かれて、
政権都市としての機能が整備される中、山肌に入り込んだ谷(谷戸)は垂直に切り落とされて、武家や僧侶の墓や供養のための仏殿が作られていった。そして政権が安定すると、禅宗を始めとする南宋文化を積極的に取り入れ、新しい文化が花開いていったのである。
本来、三方山の価値の一つには、山稜部のすそ野に広がる谷戸の魅力がある。しかし、現代の鎌倉の場合は谷深く住宅が入り込んでおり、人々の生活でにぎわっている。歴史と現代社会の共生が鎌倉の文化の特色であり、他にはない財産だと私は思う。
ここで注目したいのが、谷戸の開発は近代に限ったことでは無いということだ。鎌倉時代以降、谷戸の環境を生かしながら寺院や武家屋敷が造成されてきた。谷戸全体が歴史遺産としての時代の移り変わりを物語ってきたのである、
建長寺、円覚寺、浄光明寺、瑞泉寺、覚園寺などは、背後の山を取り入れた谷戸建築そのものだ。今ではその谷戸のお寺が姿を変え、住宅地へ変貌している。
源頼朝によって幕府が開かれた鎌倉。将軍を中心とした政治の仕組みが作られ、明治維新までの七百年に及ぶ武家政治の基礎が築かれる中で、武家がつくり上げた精神や文化は日本文化の発展に重要な役割を果たした。
豊かな地形に恵まれ、昔と現代が調和している今の鎌倉で、生活環境についての意識改革の積み重ねこそが、世界遺産運動の根底をなすべきものなのではないかと思う。
「武家の古都・鎌倉」の価値は何か?
横浜国立大学附属鎌倉中学校 3年 永島 麻那
「近年の日本では、世界遺産ブームが起きているが、大半の人は世界遺産を国宝の最上級という程度にしか考えておらず、世界遺産に登録する意味を考えられていない。
これでは、世界遺産に登録することにある本来の目的が損なわれてしまう。」
これは、私が世界遺産について調べていて目にした、ある人の意見です。世界遺産に登録することには、世界で「顕著で普遍的な価値を持つ」文化を認め合い、平和に役立てるという目的があるのだということを、私は最近知りました。
これは、世界遺産に登録しようと言う前に知らなくてはならないことだと思います。
それでは、「武家の古都・鎌倉」にある、「顕著で普遍的な価値」とは何でしょうか。まず一つ目にあげられるのは、鎌倉が生んだ歴史です。武家の古都、というように、鎌倉は武家文化を生んだ重要な都市です。
源頼朝が鎌倉に幕府を開いたことで、それまでの公家文化とはまるで違う、質素で強い文化が生まれました。これは、日本の歴史の中でも重要で、残していくべきものだと思います。
二つ目にあげられるのは、歴史の中で育まれた文化です。浄土真宗や日蓮宗をはじめとする鎌倉新仏教、『平家物語』や『徒然草』といった文学、阿弥陀如来をはじめとした彫刻など、その文化は多方面にわたります。
これは鎌倉独特のものであり、日本の文化の中でも、重要なものです。それらを見るために来られる観光客も多く、世界的に広く認知されているのではないかと思います。このように、鎌倉には世界遺産に登録するのにふさわしい歴史と文化があります。
私は、鎌倉を世界遺産に登録して、世界中で次世代へ伝えていくという意識を持ってほしいと思います。
私たちは附属中の生徒会で、下校マナーを向上させようというキャンぺーンを行っています。その中で、私たちが使わせてもらっている段葛を掃除しようという企画が持ち上がったことがありました。
私はその帰り道、何人かの友達と段葛を注意して見ながら帰りました。すると、意外にも茂みの中にお菓子のゴミが捨ててあったり、タバコの吸い殻が落ちていたりといったように、汚れている部分が多くあることに気づきました。
このときのことは私にとって衝撃的でした。世界遺産に登録され、皆が意識するようになったらこのようなこともなくなるのかもしれませんが、やはり世界に認められる都市にするには、そのような小さなことから意識していかなければならないと思います。
私も、鎌倉に通う学生として、少しずつ意識を変えていきたいです。
鎌倉は、他の候補地に比べて世界遺産の登録推進運動にまわりの人が積極的だと思います。誰もがそれを自分のこととしてとらえ、正面から取り組んでいます。だからこそ、皆で意識して、街の美化など小さなことから始めるべきであると私は思います。
鎌倉に住む人、鎌倉に通う人から意識を高め、それを世界に広げ、いずれ世界平和につなげる、それによって初めて、「武家の古都」としての鎌倉の価値が光るのではないでしょうか。
「武家の古都・鎌倉」の価値は何か?
横浜国立大学附属鎌倉中学校 3年 二見 萌花
鎌倉時代は、今から約八百二十年前に初めて関東が政治の中心となり、武士が政治を行った時代だ。その頃に建てられた寺院が、少しずつ形を変えつつも現代まで伝わり残っている。
私は今まで、形を変えつつも、多くの寺院が残っていることが鎌倉の価値だと思っていた。
先程も述べたように、鎌倉で政治を行ったのは武士だ。そのため、貴族のように華やかで大きな宮を造るなどのようなことしたわけではない。だが、本来の「武士」を感じさせるような寺院は多く残っていると思う。
それらの寺院に、今では国を問わず、世界中の人が訪れている。約八百二十年前のものに多くの人が興味を持つことは素晴らしいことだ。
しかし、なぜ約八百二十年も前の寺院が残っているのだろうか。私はつくづく不思議に思う。鎌倉時代の後も、日本各地で多くの争いがあり、火事や戦争による被害も鎌倉だって少なからず受けたはずだ。
昔はあった寺院が、今では無くなっているということだってたくさんあるだろう。そんな中でも、鎌倉時代の頃から続く寺院が、私が聞いたことのあるだけでも約二十ヶ所ある。これだけの数が残っていることには二つの理由があると思う。
まず一つは、長い歴史を持つからこそ、ここで無くしたくないという思いが、人々の中にあるということだ。その思いの根本となるものは人によって様々だと思うが、いずれにしても、これからも守り続けたいと思うはずだ。
それに、伝わっているものやことを、後世に伝えたいという思いもあるだろう。
もう一つは、これらの寺院が住民のすぐ近くに位置することだ。近くだからこそ存在がより知られているのであって、離れていたら存在そのものがあまり知られず、先程述べたような思いもうまれないと思う。
それに、近くだからこそ、大切にしたいという思いは強まるはずだ。
私はこの二つのことが「古都・鎌倉」の価値の根本となっていると思う。たとえ、歴史が長かったとしても、離れた所で放っておかれていたら、人々の中の価値は低くなるだろう。
逆に、少しぐらい歴史が浅かったとしても、近い所で多くの人の気持ちがあれば、人々の中の価値は低くはならないと思う。
以前の私は、私たちの生活の中に寺院はあって当たり前だと思っていた。だから価値は何かと問われても、答えることができなかった。しかし、考えてみると、寺院が多くあることは他ではあまり無いなと思った。
それも、鎌倉時代の頃から続くものが住民の近くにあるというのは大きな特徴であり、鎌倉の価値の根本とも一致すると思う。よって今では、「古都・鎌倉」の価値とは、約八百二十年前の寺院が地域の住民にとって身近な存在となっていることだと私は思う。
「武家の古都・鎌倉」の価値は何か?
鎌倉女学院中学校 1年 三浦 早葵
私は、鎌倉女学院に入学するまで、鎌倉については全く知りませんでした。歴史の勉強をした時に、鎌倉時代の中心となった場所で、源頼朝、源義経、北条氏などのキーワードで覚えているくらいでした。
「鎌倉に通学している」と話すと、周りの人からは「いい所に通っているね」と必ず言われます。鎌倉を知っている人、または一度でも行ったことがある人は、みんなこの街を気に入ってもらえます。
私も今は、鎌倉の街並みが好きです。八幡宮から由比が浜まで真っ直ぐに伸びた大きい道路に、景観を損なわないように建てられた街並み、住む人たちみんなで街のことを考え、歴史ある風景を守っているように感じます。
また、寺や神社など、歴史的な建造物の数は京都や奈良に比べて少ないかもしれません。しかし、海と山の自然に囲まれた歴史的な街、そして一つの時代を築いた街、それが鎌倉の良さだと思います。
この鎌倉の価値を上げていく為に、私はもっと鎌倉を国内や国外に宣伝していくべきだと思います。私は横浜に住んでいますが、横浜駅から考えると、電車で鎌倉に行く時間と、東京に行く時間は同じです。
東京はスカイツリーができて、ディズニーランドもあり、横浜には中華街やみなとみらいがあり、たくさんの観光客が訪れます。その観光客に東京や横浜という都会の近くに、海があり、ハイキングもでき、歴史にも触れられる、
そんな素敵な場所があることを、もっと知ってもらう必要があると思います。
その為に、鎌倉駅周辺の学校の生徒全員が、もっと鎌倉の地理や歴史を勉強し、コンシェルジュのように、観光客から尋ねられた時、すぐに教えてあげられるようになれば、たくさんの人に鎌倉の良さが伝わると思います。
また、この価値ある鎌倉を次の世代に引き継いでいく為にも、私たちが鎌倉をきれいにしていくことが重要だと思います。近隣の学校で決まった日に清掃活動を行なったりすることも、一つの手段だと思います。
武家の古都である鎌倉の価値とは、鎌倉時代から築き上げられてきた歴史的な価値と、現在の自然の景観の価値だと思います。そして私たちが、これらを守っていく努力により、その価値は何倍にも大きくなっていくものだと思います。
「武家の古都・鎌倉」の価値
横浜国立大学附属鎌倉中学校 3年 多田 早葉子
駅を降りると涼やかな海風。そして溢れんばかりの緑。古都の香り漂う私の暮らす鎌倉は四季の全てが美しい。私の大好きな鎌倉。その鎌倉の歴史的位置づけ、その価値を考えてみようと思う。
平氏を滅ぼした源頼朝が征夷大将軍に任ぜられ、鎌倉幕府を打ち立てたのは、1192年の事である。
天皇から貴族、貴族から武士へと政権が移りゆくが、その貴族から武士へ権力が移行した時の地、それがまさに鎌倉なのである。
なぜ鎌倉を頼朝が拠点としたという説には様々な憶測がある。
三方を山に囲まれ、一方は海という鎌倉の立地条件が居を守るのに適していた事。公家の勢力が大きい京都から遠かった事。源氏の先祖が氏神を祀ってあったのが鎌倉の由比ヶ浜辺りであった事。などが挙げられている。
鎌倉に幕府が置かれたという事実は、それまで、歴史上地味な場所であった関東地方が京都、奈良、大阪と同等に扱われるほどに格上げされた。そして鎌倉幕府がおかれた事実により、
その後の政権の中心が、江戸や東京といった関東に置かれていくことへの布石になったのではないかとすら私は思うのである。
また鎌倉の現在の魅力として、頼朝や北条氏らによって残された遺跡が数多く点在している事が挙げられる。代表的なのは、鶴岡八幡宮、大仏殿、円覚寺などであろう。
頼朝によって造られた鶴岡八幡宮は、「関東の鎮守」として祀られ武家の精神のよりどころとなった。そして現在も深い森の緑の御社殿の鮮やかな朱色のコントラストにより鎌倉の美しさを引き立たせている。
大仏殿は、関東にも大仏を造ろうとした頼朝の遺志により建立されたといわれる。現在もその巨大な美男姿は、見る人を圧倒する。
円覚寺は1282年、北条時宗によって創建された。時宗の禅を広めたいという思いと蒙古襲来による殉死者を敵味方関係なく平等に弔うために建立された。確かに境内に入ると深い静寂に包まれた神秘的な空気が漂っている。
俗世間から切り離されたような時空に浸ることができる。これら他にも、私たちは幕府跡、腹切りやぐら、六地蔵、数々の武士たちの残した足跡の中で暮らしている。
その歴史的文化財の多さ、関東の繁栄の基盤を築いた事、武家政権が樹立された地であること等により古都鎌倉の価値は、京都奈良に匹敵するものと私は感じている。
7月27日付けの神奈川新聞に「文化庁が26日に古都鎌倉を世界文化遺産の登録推薦するための審査に近く入ることを決めた。」と記載された。
鎌倉時代の武士達の栄華と失墜が染み込んでいる鎌倉には世界文化遺産となる価値があるはずである。
「武家の古都・鎌倉の価値は何か?」
横浜国立大学附属鎌倉中学校 3年 松尾 太一
ぼくの通う学校は、鎌倉駅から北東へ徒歩10分。有名な鶴岡八幡宮の真横にある。そして通学路は、八幡宮に続く段葛だ。当たり前の通学風景。砂利の音を立てながら、目の前の荘厳な景色にも気づかず、ただ学校に通う毎日だった。
中学二年の夏、鎌倉の地域調べをしたことがきっかけで、段葛のいわれを知った。段葛とは、若宮大路の中央にある一段高く作られた歩道で、現在では五百メートル余りの八幡宮の境内へと続く参道のことだ。
鎌倉幕府が攻め込まれるのを防ぐために道幅が徐々に狭くなっており、遠近法によって実際の距離より長く見える造りとなっている。全国で唯一残っている遺構である。
歴史を知り視点が変わると、八百年以上経った今もその姿を留めているこの鎌倉の地は、やはり日本の重要な文化財であると再認識した。鶴岡八幡宮は、源頼朝の手により都市づくりの中心に据えられ、武家の崇敬を集めた。多くの武将が、山を削り、
少ない平地を増やして屋敷地を造成し、住みついた。若宮大路を中心に、今もその名残りのある街並みとなっている。武家の厚い信仰心は、同時に鎌倉彫の歴史も作り出した。
ぼくの中学校の正門から海に向かって、若宮大路と平行してまっすぐ伸びる道には、当時商店が並び、商人が住む通りであったこと、段葛は、武家屋敷を造成した際、山を削った為、山の保水力が低下し、雨が降る度に若宮大路に土砂や水が流れ込み、
道がぬかるんで歩き辛くなったために、道から一段高く建設したものであることを調べて知った。史実を裏付ける形で、今日もその様子を留めている所に、古都鎌倉の価値を見い出すことができると思う。長い間、独自の文化が守られてきたのも、
三方が山に囲まれた地形で、外との文化交流がなされなかったからだろう。
では戦後、交通が発達してからはどのように守られてきたのか。歴史を学ぶと、当たり前の通学路であった段葛に、違う景色が見えてきた。それは、参道を守り続けている鎌倉の人々の姿だった。早朝、じゃりを均してきれいに掃いて下さる方々
、四季折々の美しい花や緑を手入れして下さっている方がいること、多くの人の手によってこの参道が守られていることに気がついた。ぼくたちが単なる通学路という意識で、砂利を蹴ちらして歩いてはいけないのだ。
皆の意識の高さが鎌倉の文化を守ってきたのだ。歴史を守り続けるには、一人ひとりのモラルが大切であると感じた。古都鎌倉の魅力は、鎌倉に住む人々、鎌倉を愛する全ての人々によって、守られていることに価値があるのだと思う。
鎌倉を大切に思う一人でありたい。ぼくは、歴史を守り続けてきた方々に「ありがとう」という気持ちを持って、段葛を歩いている。
「武家の古都・鎌倉」の価値は何か?
第二中学校 1年 長谷川 繭子
鎌倉で暮らしていると、身近に歴史を感じることが出来る。登下校の途中に源頼朝の墓の横を通ったり、鎌倉で最古の寺、杉本寺の横を通ったりと、普段何気なく過ごしているけれど、それはすごく贅沢なことだと思う。
父から聞いた話だが、八年前に家を新築する際、土地の発掘調査が行なわれた。詳しい結果は分からないが、昔使われていた皿や大きな瓶がたくさん出てきたそうだ。私が今住んでいる場所に昔はどのような人たちがどのような生活をしていたのだろう。
私はよく鎌倉を家族と散策する。その中で特に私が気に入っている場所は、銭洗弁財天宇賀福神社だ。銭洗弁財天は、鎌倉佐助にある。洞窟にある清水で硬貨などを洗うと増えると伝えられている。
昔、巳の年(1185年)の巳の月、巳の日に源頼朝の夢の中に、宇賀福神が立ち、「西北の仙境に湧き出している水を汲んで神仏を供養すれば天下が平穏になる」とお告げがあり、平穏を祈っていた源頼朝はお告げにあった泉を探しあて、
この水で神仏をお祭りすると、国は平穏を取り戻したとされている。私がなぜそこが気に入っているのかというと、いかにも鎌倉らしいということと、歴史深い雰囲気の洞窟があるからだ。
鎌倉の魅力は古い歴史だけではない。夏には、大勢の海水浴客で賑わう海といくつものハイキングコースのある山々だ。父や母が子どもの頃は、鎌倉の海は今より汚れていたそうだ。みんなが環境のことを考えるようになり、
今では魚が泳ぐのが見るくらい透き通った海になった。
私が小学生の時の行事でウォークラリーというのが毎年秋にあった。鎌倉の山々を地図を見ながら歩くのだが、毎回違うコースを歩いて順位を競うウォークラリーは、鎌倉に住んでいるから出来る贅沢な行事だなと思う。
毎日毎日鎌倉には大勢の観光客が大型バスや車、電車でやって来る。春は桜、あじさい、夏は海、秋は紅葉、冬は初詣と一年中観光客であふれている。住んでいる私たちにとっては、車が渋滞したり、道をすんなり歩けなかったり、
ゴミが捨てられたりと不便なこともたくさんあるが、それだけ人々に愛されている鎌倉をもっと魅力的な町になるように、私に出来ること、例えばハイキングをしながらゴミ拾いをしたり、
観光客に道を聞かれたら分かりやすく教えるなどをしていきたいと思う。一人一人が少しだけでも意識していればもっと魅力的な鎌倉になると思う。
父が育った鎌倉に私も住み、将来私もここで自分の子どもを育てられたらいいと思う。
「武家の古都・鎌倉」の価値は何か?
玉縄中学校 3年 岩田 亜沙人
ふと想像してみる、僕たちの住んでいる鎌倉の八百年前のことを。僕の立っているこの場所に、鎧を着て馬にまたがった武士が実際に存在していたことを思うと、何だか不思議な気持ちで胸がドキドキしてくるのだ。
僕の祖父や父は鎌倉で生まれ育ち、僕も当然のように鎌倉で育ってきた。小学生の頃から歴史の勉強はしてきたし、鎌倉が古都である事は「知識」としては持っていたが、今までそのことを肌で感じて、「認識」することはあまりなかった。
去年、長谷の大仏を見たことがないという僕の為に、両親が長谷に連れて行ってくれた。もちろん大仏のある高徳院も素晴らしかったが、僕が何より感動したのは長谷寺の十一面観音だった。約九メートルの高さで、木造の観音像では日本一の大きさといわれている。
僕は初めてこの観音像を見て、その威風堂々とした立ち姿からそれ以上の迫力を感じ、思わず息をのんだ。この時から鎌倉が古都であることを肌で感じ、心から誇らしく思うことができた。そして、守られなくてはならないと強く感じた。
鎌倉時代は初めて京都から離れ、本格的な武家政権がはじまった歴史的な時代である。そもそも鎌倉幕府を開いた源頼朝がこの地を選んだのは、三方を山で囲まれ、海に面していることから守備に適していると考えられたからだといわれている。
このほかにも鎌倉には流鏑馬や切通しを始め、武士の都たる名残がいくつもある。また、鎌倉新仏教といわれる仏教の新しい宗派が多く生まれたのも鎌倉時代だ。武士と宗教には密接な関係がある。鎌倉幕府においても将軍や執権が多くの寺社をつくらせた。
座禅を組んで悟りを聞くいわゆる禅宗は武士の間で特に広まった。僕が鎌倉の素晴らしいと思うところは、寺や神社に行くと、当時の武士と同じ空気を感じられるような気がするところだ。
車道がすぐそばにあるにもかかわらず、一歩境内に入ると寺社の中は静かな時間が流れているのが不思議でならない。武士が戦の間で宗教に求めていたのは、心の平穏、リセットであると僕は感じている。
寺社などで座禅を組みながら、無の状態になれる時間は、当時戦ばかりで気の休まらなかった武士にとってはとてもぜいたくな時間だったのだろう。
八百年以上経った今でも僕がそういった風景の一端を感じることが出来るのは、大切に保全されている寺社の建造物や仏像だけでなく、今でも多く残る豊かな緑と海などの自然の果たす役割も大きいと思う。文化遺産そのものだけでなく、
そういった周囲の環境も含めて守っていくことに大きな意味があるのではないだろうか。
僕は鎌倉という地が武家政権発祥の地として、いつまでも力強さと、安らぎを与える静けさを兼ねそろえたまちであって欲しい。その事が結果今に残る文化遺産などの価値を更に高めることにつながると思う。
「武家の古都・鎌倉」の価値
鎌倉女学院中学校 1年 鳥飼 真衣
私は「武家の古都・鎌倉」について夏休みに歴史の本を調べたり、図書館で鎌倉の文化について調べたりすることで、鎌倉の価値を三つにまとめました。
一つ目は「日本最初の武家政権である」ことです。
鎌倉以前の政権は奈良や京都に都を置く公家の政権でした。
1192年に源頼朝が武家として初めて鎌倉に幕府を開き、鎌倉が日本の政治の中心となり、武家により政権が始まりました。
そして、鎌倉時代は最初の武家政権であり、その後、室町時代・江戸時代へと続き、明治維新をむかえる1868年までの約六百八十年間の武家政治の土台を築きました。
武家の都としては、鎌倉以外に江戸がありますが、江戸は明治以降東京となり大きく変わってしまい江戸時代の姿はほとんど見られません。でも鎌倉は、当時の姿をよく残しています。
頼朝が造った鶴岡八幡宮は今も町の中心であり、由比ヶ浜から八幡宮に続く若宮大路は今もメーンストリートとして残っています。
建長寺や円覚寺などの寺院や長谷の大仏なども当時の姿を現代に伝えていて、歴史的な価値が高いと思います。
二つ目は、鎌倉は、武家の都らしく、町全体が「城」のような造りになっていることです。
鎌倉以前の都は、平城京にしても平安京にしても、平坦な土地に碁盤の目の様な道路を通しています。しかし鎌倉の地は、三方を山に囲まれ、一方が海に面していて、敵が攻めてきても、攻め難い土地です。
都の貴族たちに当時「鎌倉城」と呼ばれるほどでした。
幕府は、道路を開く時にも、馬一頭分の幅しかない「切通」という細い道路を造ったり垂直に山を切り崩した「切岸」を造ったり、兵を集める「平場」を造ったりして、常に戦争に備えた城の様な都を造りました。
これも、鎌倉以前には見られなかった都であり、武家の都の特色を表わしています。
そして、三つ目は、鎌倉時代に始まった武家の文化が現在の日本人にとても大きな影響を与えていることです。
鎌倉武士は戦いに備えて「流鏑馬」、「笠懸」、「犬追物」などの武芸に励みました。そして、その質実剛健や名誉を大切にする気風は、「武士道」の精神としてその後の日本人に受け継がれています。
また鎌倉時代には、浄土宗、時宗や法華宗などの宗教が生まれ、貴族だけでなく武士や庶民にも信仰が広がった時代です。なかでも臨済宗や曹洞宗などの禅宗は、座禅などの厳しい修業によって悟りが開けるとの教えであり、
その後の日本人の考え方に大きな影響を与えました。
さらに、鎌倉には、建長寺や円覚寺、寿福寺など多くの禅宗寺院がありますが、なかでも国宝である円覚寺舎利殿は禅宗様式の代表例としてその後の日本の建築に大きな影響を与えています。
私は、武家の古都としての鎌倉の価値について、今回勉強しましたが、鎌倉の魅力や価値が日本だけでなく世界の人々に理解されたらいいな、と思いました。
「武家の古都・鎌倉」の価値
横浜国立大学附属鎌倉中学校 3年 伊勢木 匠美
鎌倉、といえば鶴岡八幡宮から始まり、円覚寺、鎌倉大仏、銭洗弁財天宇賀福神社と、さまざまな寺社が出てくる。それから、若宮大路と段葛、切通などが思い浮かぶ。
中世鎌倉時代当初の姿とまるきり同じとは言えないが、今もなお、人々の暮らしと結びつき、存在し続けている。
その中で鶴岡八幡宮を考えてみる。それは昔、源頼朝が、平家打倒の際、祖父以来源氏由来の地である鎌倉に入り、鶴岡八幡宮を祀って源氏の氏神とし、同時に鎌倉の中心に据えることによって都市鎌倉の街造りを進めたのだという。
現在では、毎日の祭事に加え、多くの人が参拝に来るだけでなく、結婚式も行われる。鶴岡八幡宮の周りを囲む豊かな自然も忘れてはいけない。その自然を維持しているのは、現代の人々であるからだ。
銭洗弁財天宇賀福神社は、洞窟に弁財天が祀られている。鎌倉時代の第五代執権北条時頼はこの福の神を信仰し、自らこの水で銭を洗って祈り、巳の日を選んで人々に参拝させたそうだ。
今日でも弁財天にお参りして、その前の小さな池でお金を洗うと「お金が増える」と信じられており、大勢の人が硬貨やお札をザルの中に入れて洗っている風景が見られる。
どちらも、当時と全く同じとは言い難い、けれども、鎌倉に住む人々にとって、それらが今も自分たちの暮らしと結びついているのだ。おそらく、これからも長く続いていくだろう。
鎌倉は、武家文化の始まりの地である。鎌倉は、三方を山に囲まれ、一方だけが海に面している。この特殊な地形のために、独自の都市が形成された。その中で武家文化は宗教、伝統、学問、芸術など幅広い分野において独自の発展を遂げてきた。
特に、日本の「禅」は、日本人の思想の基礎となり、世界に知られる日本文化の一つである。
たとえば、鎌倉は、世界遺産であるナスカの地上絵や、ピラミッドのように、規模が大きいわけではない。そもそも時代が違う。地上絵やピラミッドのほうが、はるかに古い。しかし、それらが今もなお使われているものであるだろうか。
当時と、似たような習慣を今も続けている人たちがいるだろうか。もしかしたら小さな部分であるかもしれないにしても、地上絵やピラミッドを当時と同じように利用する人がいるという話を聞いたことがない。日本でいえば、古墳もそうだ。
鎌倉文化は、約百五十年続いた。他の時代と比べれば、決して長くはない。だが、その武家文化はのちの江戸時代、そして現代の日本文化と深く結びついており、今もその地に住む人々の生活とともに、そこに存在し続けている。
それが、武家の古都、鎌倉の価値だろうと、思う。
「武家の古都・鎌倉」を世界遺産に
第一中学校 3年 濱中 晃
陸、海、空。そして、山。鎌倉を包む自然。そして私たちを包む自然。美しく、雄々しく、広がるこの自然は、四季の移り変わりと共に、自在に姿を変えながら私たちを、そして八百年の歴史を持つ古都鎌倉を静かに見守ってきました。
今なお受け継がれる「武家の心」、歴史と共に生きる街と人々の心がここ鎌倉には息づいています。
四季を彩る自然、その中で歴史的建造物がひときわその存在を輝かせます。鎌倉と言えば、初夏、新緑、あじさいと言われますが、私は冬が好きです。観光客が多く訪れる華やかな他の季節も良さはありますが、冬は人が少なくなり、古都鎌倉にも静けさが戻ります。
静寂が広がる寺社の境内で、木の葉が静かに散っていく姿などは、鎌倉ならではの風情を感じさせます。歌人としても著名な実朝が、冬に数多く作品を詠んでいたのにも納得します。
そして、何より驚くことは山をバックにしたこれらの寺社の風景は、八百年以上も前の人々が目にしていた風景とほとんど変わっていないということです。実朝の和歌に「磯の松いくひささにかなりぬらんいたく木高き風の音かな」というものがあります。
磯の松が刻んだ風の音に歴史を感じるというものです。一の鳥居から海岸に向かって多くの松が生えています。私が自転車で通りぬけるこの松並木は、実朝が見ていたものと同じでしょうか。
百以上にも及ぶ寺社、鎌倉時代の武士達が踏みしめた大地、舟を浮かばせた海、見上げた空、そして三方を囲む山々。そこかしこに今も変わらぬ姿が残っています。胸を張って世界に誇れる都、それが鎌倉です。
世界遺産とは、「世界の文化遺産および、自然遺産の保護に関する条約」に基づいた、人類が共有すべき顕著な普遍的価値を持つ物件のことです。
日本で登録された世界遺産はいずれも、歴史の重みや美しさが胸を打ち、自然の美を五感で受け止められ、そこを訪れた人々の心を強く揺さぶるものです。
鎌倉は「武家文化」を訴え、世界遺産登録を目指しています。でも、鎌倉の文化は鎌倉を囲む自然が作り上げたものです。鎌倉は自然と文化が一体となった、普遍的価値を持つ街だと思っています。
しかし、観光客の増加に伴い、環境や治安の問題など一部住民からは不安視する声
も上がっています。でも、世界遺産とは、問題が発生しても世界中で協力して保存に
努めるものです。私が大好きな鎌倉が、世界の人々によっても守られているなんてこんな誇らしいことはありません。
自然と文化が融合した街、鎌倉。世界の人々にもっと知ってもらいたい。そして、世界の共通の財産として「武家の古都・鎌倉」を後世に受け継ぎ、この素晴らしい街に息づく心が守られ続けてほしい、そう強く願っています。
鎌倉に暮らすということ
第一中学校 3年 市川 詩奈
鎌倉に住み始めて五年になる。それまでは名刹を訪ねる普通の観光客で「奈良じゃないのに大仏がある」くらいの薄い印象しかなかった。それに当時小学生だった私は、ここがそんなにいい場所だとは思えなかった。
でも実際暮らしていると「鎌倉っていいね」と口々に言う大人の心境が少しずつわかるようになってきた。鎌倉がたくさんの人々に愛され続ける理由は「古き良き時代と現代の融合」にあるのではないだろうか。
鎌倉は、日本の武家政権における最初の都だった。当代の社寺や工芸品は文化財などに指定され、今も大切に守られている。また、鎌倉文学館や鎌倉国宝館本館、ホテルニューカマクラのように、昔使われていた屋敷を再利用した施設もある。
このように鎌倉は、古いものを大切にするだけでなく、現在でもその時代時代の良さを味わうことができるようになっているのだ。それが、古き良き時代の情緒を今も色褪せずに感じることができる要因なのだと思う。
また、鎌倉時代に生まれた習慣や思想は、のちの日本文化に大きく影響した。例えば、お正月の初詣は源頼朝が始めたという話。治承五年の正月朔日に、鶴岡八幡宮を参詣したのがその始まりと言われている。
山沿いに社寺を建て中国から禅宗を取り入れたり、武士の精神「文武両道」の考えが広まったりしたのも、鎌倉時代があったからこそのことなのだ。もしこの時代がなかったら、今日の日本文化は全く違うものになっていただろう。
鎌倉のいいところは、歴史的遺産と現代の人の営みが融合しているところだ。ちょっと歩けば出くわす神社。私の散歩ルートになっている和賀江島と光明寺。古民家を再利用したお店や会社……。
地元の人をはじめ、観光客や外国人などに愛され続けているのは、どこか古びた懐かしさと、遠い時代の結晶が残っているだけではなく、現代的なセンスが品よく融け込んでいるからだと思う。
このように鎌倉の魅力には「古都」ということ以外の様々な要素が含まれている。それは、三方が山、一方が海という独特な地形も関係しているのではないだろうか。現代の人はこの豊かな自然を愛し、
新鮮な魚や野菜を食べ、サーフィンや釣りを楽しんでいる。皆がそれを大切だと感じているから、鎌倉という特別な環境を、強制することなく守っているのだろう。
私たちがどこよりも気持ち良く暮らしていくことができる街、それが鎌倉なのだと思う。
鎌倉の自然や歴史
第二中学校 1年 小柳 暁海
ぼくは、鎌倉が大好きです。ここに住み、二中に通えて本当によかったです、だからこの鎌倉が世界遺産になって大勢の人に知ってもらえればみんなが鎌倉の良さを知ることができていいと思います。
鎌倉でまず自慢出来るところは、山と海の両方があることです。
山は季節によって桜の花でピンクになったり、葉っぱで緑になったり、紅葉で黄色やオレンジになったり、とても美しいです。冬も僕の家からだと手前に八幡宮の赤い鳥居が見えるからいい風景だなと思います。
海にはよく行きます。夏の海は遊べるし冬の海には貝を拾いに行ったり、マラソンに行きます。鎌倉はすぐに海に行けるのがとてもすばらしいです。
歴史がたくさんあるのもいい点だと思います。この前、中学校で鎌倉探索をしました。
お寺や神社に行って初めて知ったことがいろいろありました。例えば、ぼくは妙本寺の中にある比企谷幼稚園に通っていたので、毎日本覚寺の横を通っていたけど、探索で初めて本覚寺の「夷」が一文字である理由や日蓮上人が滞在したことを知りました。
鎌倉には、古い歴史や出来事がまだまだあるはずです。ぼくも鎌倉に住んでいるからには、もっと鎌倉の寺や神社に行って新しいことを見つけたいです。
また、鎌倉には鎌倉彫があります。伝統工芸です。ぼくの家にもお盆と茶たくがあります。小学校の時に図工でぼくも鎌倉彫をして楽しかった思い出があります。
鳩サブレ―も鎌倉のお土産として人気があります。八幡宮にたくさんいる鳩を思い起こさせるからみんな買って帰るのだと思います。
忘れてはいけないのは、源頼朝です。頼朝が鎌倉に幕府を開いたのは、やっぱり鎌倉がいい場所だと思ったからだと思います。なぜなら山と海に囲まれていて、敵が攻めて来にくい地形だからです。頼朝にまつわる場所も数多くあります。
家の前の若宮大路(段かづら)は頼朝が妻の北条政子の安産を祈って作った参道です。段かづらは歩くと本当に「ああ、ここは鎌倉なんだ」と思えます。それから、八幡宮の大イチョウが倒れた時に鎌倉の人たちがショックを受けていたのも印象に残っています。
きっと鎌倉の人の歴史を大切にしたいと思う気持が強いからこそショックだったのだと思います。
鎌倉のすごいところは、鎌倉に住んでいる人たちが自然や歴史をとても大切にしていて、誇りに思っていることだと思います。だから、一番重要なのは鎌倉が世界遺産になっても、ぼくたちが鎌倉を大好きで大切に守っていくことだと思います。
「武家の古都・鎌倉」の価値は何か?
玉縄中学校 3年 為実 隆人
僕は昔、全く世界遺産や文化財などに興味が無かった。いつも、それらを見ている時にはこんなことを考えていた。「これの、どこが面白いのだろう?」「これはすごいものだと言われているけど、本当にすごいものなのかな?」
でも、その考えは修学旅行として京都・奈良に行ったことで変わった。一日目にとても大きいと聞いていた東大寺に行った。二日目には金閣寺などの京都の様々な代表的な建築物を見に行った。三日目はとても和やかな雰囲気で心を落ち着かせてくれる大覚寺に行った。この時、僕は思った。「文化財は昔の人がつくりあげた貴重で素晴らしいもの。僕たちが後世に伝えなければならない。」
僕は今、とても文化財に興味を持っている。だから、鎌倉の文化財が世界遺産になったら、とても嬉しい。そこで僕には世界遺産登録に向けての四つの考えがある。
まず、一つ目は文化財の景観を損なわないようにすることだ。文化財への落書きがニュースで取り上げられていたが、絶対にやってはいけないことだと思う。昔の人が苦労してつくりあげた素晴らしいものを台無しにするのはその人に対してとても失礼なことだ。
富士山は日本の象徴でもあるが、ゴミがたくさん捨てられているので、世界遺産に登録されていない。今あるものを今の状態のまま残していくのは難しいことかもしれないが、とても大切なことだ。
次に、二つ目は鎌倉市の人々が文化財に興味を持つことだ。文化財を見に行ったら、今の文化財に対する考え方や見方も変わると思うし、感動が生まれる。また、街の活性化にもつながる。
そして、三つ目は市や寺院神社などが人々に興味を持ってもらえるような取り組みをしていくことだ。若い人々が興味を持ちやすいように体験を行ってみてはどうだろうか。これなら楽しみながら、文化財との距離を近づけることができる。
最後、四つ目は鎌倉市外の人々に鎌倉の魅力を感じてもらうことだ。何か誇れるものがあれば僕たちは魅力を伝えやすいし、観光客の人も訪れやすくなるだろう。鎌倉=○○というイメージをつくり上げることが大切なのだ。
鎌倉市は世界遺産登録に向けて、平成四年から、約二十年間にもおよぶ活動を行っている。今、よりよい鎌倉、新たな歴史を刻み込む鎌倉、自信をもって自慢することができる鎌倉、心を落ち着かせてくれる鎌倉を目指して、鎌倉市民が一つになるときではないだろうか。
一つになれた時、それが意味するのは世界遺産登録だ。大きいことをやる必要はない。できることから少しずつ。
「武家の古都・鎌倉」の価値は何か?
玉縄中学校 3年 根岸 元馬
ぼくはこの素晴らしい自然と歴史ある鎌倉を誇りに思っています。その中でもぼくが一番自慢できるのは、やはり「武家の古都・鎌倉」の歴史です。ここ鎌倉は初めて武士が政治の実権を握った由緒ある場所です。
ではなぜ頼朝はここ鎌倉を武家政治の中心地にしたのでしょう。
その理由は鎌倉の地形が三方を山で囲まれており、一方が海に面しているからです。そのため敵からの侵入を防ぎ、東国武士を支配するのに都合が良かったのだと考えられます。
そうして鎌倉は約百五十年もの間、武家による東国支配の中心地としてその栄彩を極める事になりました。今ぼくたちが暮らす鎌倉の町にも、その時の名残が深く残っているはずです。
ぼくはそれを自分なりに調べよく吟味することで当時の鎌倉が持った輝きを感じてみたいと思いました。
そこで、ぼくは、主に鎌倉時代の交通の役割を果たし、今もなお利用され続けている切通を調べることにしました。切通とは山を切り掘ってつくられた道で、多数の敵が通れないようわざとせまくつくられているのが特徴です。
このことから切通は交通を容易にするだけでなく、防御の拠点にもなったと考えられます。
このように、「武家の古都・鎌倉」には交通路ひとつにしても、自分たちが築きあげた都市を守るための工夫や考えが凝縮されています。
次にぼくは「武家の古都・鎌倉」の寺院・神社について調べました。まず最初にぼくが調べたのは、鎌倉の象徴でもある鶴岡八幡宮です。鶴岡八幡宮は鎌倉の都市造りの中心に位置づけられていました。
また象徴的かつ精神的な中心でもあり、官位の授与などの政治儀式や、流鏑馬神事などの宗教的な儀式が行われました。そして鶴岡八幡宮は現在もなお鎌倉の中心にあり多くの人々に慕われています。
次は鎌倉五山の第一位の建長寺について調べました。建長寺は1253年に南宋文化の影響を受けて北条時頼によって建立された、日本最初の禅宗専門道場です。また境内は国指定史跡で、梵鐘は国宝に指定されています。
これらのことから分かるように、武家はただ戦いに明け暮れていたのではなく、神仏への信仰を通じて為政者として成長していきました。
ぼくは今もなお受け継がれている武家の文化・思想・遺跡を大切に守り続けていきたいと思います。そしてぼくたちが先人から受け継いだ貴重な歴史的遺産と豊かな自然のきらめきを日本だけで留めるのではなく世界に発信していきたいと思います。
なのでぼくはこの素晴らしい日本の宝物を世界遺産に登録してほしいと思います。