テーブルC報告 テーブル進行役 草場 圭三
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話し合いを進める草場さん(左端)
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テーブルCは、学生さんも市議の方もいる多彩なメンバー構成でした。鎌倉在住の方から隣の横浜在住の方もおられ、皆さん 北鎌倉の二大古刹のことはよくご存じで、話題は北鎌倉だけに留まらず鎌倉全体に及んで、現在の鎌倉についても活発なご意見が自己紹介時から出されて、ディスカッション前から大きな期待が感じられました。
まず、建長寺と円覚寺については、中世日本の武家の古都を代表する禅宗の大古刹であり、歴史的にも京都の古刹を凌ぐ世界遺産としてNo.1の大寺院であると、全員一致の意見が確認されました。
その上で「私たちの世界遺産をどう守るか」をCグループの協議テーマで討議したものを、レイヤー毎にまとめてみました。
世界文化遺産レイヤー
建長寺、円覚寺は中世禅院五山制度の1,2位である。それが制定されたのは室町時代であるが、時代的背景から禅宗を武士の士気向上と文化的教養のための精神的支柱とするために、幕府執権が宋から招いた蘭渓(らんけい)道隆(どうりゅう)ら禅僧に篤く帰依し、建立した大寺院である。日本文化の多くは、京都で室町時代以降に完成したのだが、五山制度のオリジナルは京都ではなく、日本最初の禅宗専門道場の2大寺院があるこの鎌倉にある、ということが熱く議論されました。
そして、そうした日本文化の歴史的・精神的基盤となった武家の古都の価値、特に2大寺院が武士道の発揚に大きく影響したことを海外の人たちに理解してもらうこと、目に見えず解りにくいと言われる武家精神に支えられた日本文化を理解してもらうこと、それが一番の課題であると再確認されました。
「文化遺産を守る」=「知り理解すること」ということ
これら古刹に現在ある建物は、円覚寺舎利(しゃり)殿(でん)のみが中世の建築であり、そのほかのほとんどは江戸時代以降に再建されたもののため、古建築としての価値を低く言う人もいます。
しかしこれら古刹では、禅の修行が今も当時のまま、専門道場で行われていて、鎌倉のまちで修行僧が托鉢をしているそうです。
中世禅宗を起点として今に伝わる日本文化の源流の一つが、ここ北鎌倉の古刹に息づいている、そうした説明を訪れる人たちに詳しく、解り易くする工夫をするとよいという提案がいくつかなされました。
来訪者の携帯電話への情報発信(プッシュ型サービス)の提案もありました。
近世・近代レイヤー
鎌倉の古建築はほとんどが 江戸時代以降に再建されたもので、見た目の迫力が足らない(スペクタクル性に乏しい)と言う指摘がありました。
また北鎌倉の二大古刹も、今の円覚寺総門と白鷺池のある前面境内の間を分断するJR横須賀線、建長寺の総門前ぎりぎりに押し寄せる大型観光バス群、 史跡内に鎌倉学園校舎があることなどに対して、世界遺産としての価値をどう見いだし、守るのかという点が議論されました。
円覚寺前の鉄道線路は、開国後の近代日本が世界に向かい、軍事力を強化しなければならない当時の日本政府が、国の最優先事項で実行した歴史事実を示すものです。円覚寺が中世に日本の国難であった元寇を防いだ、北条時宗の寺であることに不思議な因果を覚えます。
寺院本来の姿ではないが、車窓などからの風景にも雰囲気がある、と言う意見もありました。建長寺の鎌倉学園も、かつては僧侶の教育施設だった、ということです。
現代世界を楽しむレイヤー
一方北鎌倉の コアゾーンをとりまくバッファゾーンをみると、北鎌倉地区自体がすでに景観的に配慮されていて、これは住民の建物高さへの自主規制で、周辺環境の山、森の緑との調和を大切にする配慮が継続的にされてきたので、わたくしたちの世界遺産として登録されることに何ら問題は無い、と言う意見も出た程です。北鎌倉に限れば、地元の方々のこうした理解と努力を継続していただくこと、紫陽花の時期の明月院前の混雑状況を見れば、世界遺産に登録されても状況は変わらない=すでに世界遺産並の活況、という楽観的意見もありました。
視野を鎌倉全体に向けると、やはり狭い市街は慢性的な車の渋滞と、心ない観光客による地元への迷惑増加を懸念する声が多くありました。
地元に住む方たちも含めて楽しめる鎌倉にすることが、わたくしたちの世界遺産を守ることにつながると考え、その議論を始めましたが 残念ながら時間切れとなりました。
いずれにしろ世界遺産登録の是非にかかわらず、住民も含め楽しめるような宿泊施設、鎌倉らしい娯楽施設(お金が地元に落ちる施策)や交通規制策(例、通行税)を市民の理解のもとに行政が主導し、「もてなし」のあるよい街づくりを実践すること、が重要だという結論となりました。
世界遺産登録、早ければ3年後。市長も変わったことですし、これからの3年間はこれまでのW.S.の成果を具体化させること、行政と市民団体を動かし連携させること、が必要と感じられました。
おわりに
円覚寺は、元寇で亡くなった両国兵士を弔うために建立され、敵味方を共に供養する寺院であることは有名ですが、永福寺もまた平泉戦の敵方兵士を弔うために建立されました。
戦死者を悼んで造寺した源頼朝や北条時宗など武家の棟梁の「おもい」はどのようなものだったか、今の仏教寺院が冠婚葬祭の葬を専らにするようになったのはどうしてなのか、それにともない鎌倉で近頃盛んに計画される墓地の風景はどうなのか、などなど重要な話題がまだ多くありましたが、時間がなく話しあえませんでした。
以上、北鎌倉の二大古刹を中心にして、それらにかかる時間・空間・意味の異なるいくつかのレイヤーを読み比べながら課題の解決方法を探るという手法で、「私たちの世界遺産をどう守るか」のディスカッションを行いました。
この手法が、悠久の歴史を誇る世界文化遺産を、わたしたちの身近なものとして捉え、現代および今後の鎌倉を考える有効な手法であることが確認できました。話しあえなかった課題は、次の機会にまわしたいと思います。
長寺昭堂内部から庭前の柏槇を見る
※昭堂のある塔頭・西来庵は修行道場があり、 非公開。
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建長寺山門を入り柏槇樹、正面に仏殿を見る
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円覚寺門前を通る横須賀線
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