「ここまできた 鎌倉の世界遺産登録」
武家の古都・鎌倉シンポジウムを開催
2007年10月21日(日)、鎌倉商工会議所ホールで鎌倉の世界遺産登録をめざす市民の会主催、鎌倉世界遺産登録推進協議会共催による第17回武家の古都・鎌倉シンポジウムが開催されました。
伊藤正義さん(鶴見大学教授、前文化庁主任文化財調査官)の基調講演を受けて、伊藤さん、安西篤子さん(作家)、玉林美男さん(鎌倉市世界遺産登録推進担当)をパネリストに迎え、内海恒雄さん(市民の会推進委員、登録推進協議会広報部会長)を
コーディネーターとしてパネルディスカッションが行われました。以下にシンポジウムでの発言の要旨、次ページには基調講演要旨をご紹介します。
伊藤 幕府の跡は住宅や学校が建ち、説明がむずかしいが、鎌倉の谷の中の場所に意味があり、御所はなくても地形や街の基準となる八幡宮、若宮大路が残り、自然も改変がないように確保されています。
三方が山で前方が海の地形は母の膝の上から見た景色で母性原理の空間で平和原理を含んだ場所と言えます。そのような原理で出来ているからこそ街を守る寺社があり、象徴として八幡宮と大仏の二重構造がある。日本国、特に中世は好戦的という説明を大きく変えるべきです。
候補地24ヵ所を納得させるように自信を持ってはっきりと申請登録すべきです。社寺の意味合いも奈良、京都はフルコースの料理の素晴らしさを見せたが、鎌倉の場合、テーブルと器が奇麗だということを見せるべきであると思います。
玉林 中世は武士の時代であって武士は戦士である。そうした中で戦争と向かい合っている存在でもある。一方では正しい見方ですが文化の中にはとても大きな平和思想と人間救済の思想があります。1187年、八幡宮で敵方供養のための放生会が行われ、流鏑馬も奉納されて現在に伝わっている。
奥州合戦の戦死者供養として永福寺が、蒙古襲来の敵味方供養で円覚寺が建てられました。敵味方供養は広く定着して沖縄で市民、日本軍、敵国軍の供養が見られます。日本人独特の平和思想が武家によって創られている。鎌倉の歴史遺産を市民と一緒に支えていくことがこれからの大きな課題であります。
安西 源頼朝は鎌倉を本拠地として、いわゆる武家政権ができました。畿内の朝廷による公家政権は最初、東国の賊の騒ぎかと思っていたが、やがて政権を打ち立てた。公家は寝殿造にすみ、
武家は書院造が出てくる。
武家社会と公家社会は同じ日本の文化とは思えない。公家の光源氏はよく泣きそしてよく笑う。感情が豊かなのが人間らしいとされている。武家社会になると「男は三年で片頬」という考えで感情を表に出さない。
私は武家の考え方は今でもずっと続いているのではないかと考えています。今の日本人の体質に基づいている武家文化の元はフランス革命にも匹敵する。それまでとはがらりと変わる、力がものをいう政治が鎌倉に始まる。
大きな、大きな変化というところから鎌倉を見直したいです。平和のための武家が武力を振るう。すぐには武家と平和は結びつかないが敵味方問わず鎮魂することが一
つのテーマとなるのでは。そういう方向性だと鎌倉の説明がしやすいのではないでしょうか。
内海 以前から鎌倉が宗教都市だというイメージは持っていました。鎌倉の本質を理解すれば慈悲の心、博愛精神の街にレベルアップが出来るのではないかと思います。
今までの努力でやっとこのような市と市民が協働できる場が出来ました。世界遺産登録に向けて、今までの発想に無いあり方を考えないといけないと思います。今回のシンポジウムを通して、鎌倉の世界遺産登録の意義や認識、具体的な街づくりについても市民の皆様と共有できる示唆を与えて頂きました。
ご協力ありがとうございました。(了)
[国指定史跡指定に係る不適切な事務処理について]
鎌倉市長から市民と登録推進協議会に陳謝がありました
2007年12月21日(金)に、鎌倉市役所で登録推進事業部会と広報部会の合同部会があり、その席で石渡徳一鎌倉市長から、12月6日に市から公表された「国指定史跡指定に係る不適切な事務処理」に関して、推進協議会と市民に対する陳謝がありました。
その内容は、『鎌倉市世界遺産登録推進担当が行っている、国指定史跡指定に係る事務処理について、指定申請書類に必要な同意書の偽造等、極めて不適切な事務処理が行われていた』ことをお詫びし、今後、再発防止のための取り組みを徹底し、市民の皆様の信頼回復に誠心誠意努力するというものです。
両部会長はこれに対し、「市は責任の重さを充分認識し、今後、市民の信頼回復に真摯な努力を」「推進協議会としても、世界遺産登録に対し市民の理解を得られるよう一層努力する」と述べ、推進協議会としての活動を継続する決意を再確認しました。
市民の皆様と推進協議会会員の皆様のご理解と変わらぬご支援をお願い申し上げます。
武家の古都・鎌倉シンポジウム
基調講演〈要旨〉 「世界遺産登録の現状と鎌倉のいま」
鶴見大学文学部
文化財学科教授
前文化庁主任文化財調査官
伊藤正義さん
世界遺産というのは、ヨーロッパがスタンダードで、建造物が中心です。日本でそれが大きく変わったのは、原爆ドームの指定のときです。建造物を指定してきたこれまでと違い、廃墟を指定するための理論づくりが必要でした。
アメリカとぶつかることを避けようという政治的判断から、原爆ドームと厳島神社を、ひとつの県から二つ一緒に世界遺産登録することにしました。ここから世界文化遺産は建造物中心から記念物中心にシフトしていきます。
鎌倉と同じカテゴリーで、古都京都の文化財、古都奈良の文化財があり、建造物の優品の集合体です。鎌倉はその点明らかに何段階もレベルが下がります。奈良は埋蔵文化財として平城京跡、春日神社の背景を成す春日山原生林を含めた統合型、複合型文化財として登録しました。
木造建築である社寺は部材を取り換えていきます。それをどのように説明するか。木の文化の東アジアでは、同一の技法、同一の素材で修理していけば、真実性は減じないことが認められています。沖縄の琉球王国の遺産は戦争で壊滅状態になりました。
首里城もすべて復元で、新しく作られたレプリカです。中世のものがほとんどない鎌倉に近いのですが、登録には大きな抵抗がなくすんなり通りました。
日光の社寺は2社1寺で、周辺の土地も指定しました。当時の日光は観光客減少のため何とか地権者の同意が取れたが、鎌倉は今でも観光客があふれています。
新しいカテゴリーとして熊野古道が出ました。紀伊山地で「文化的景観」というものが初めて出ました。
石見銀山は大変難しい状況でした。石見銀山が最初不適格とされた理由のひとつは、登録の必要性として挙げていた石見銀の世界への流通について、当時日本に来ていたポルトガル人とスペイン人以外あまり知られていなかったことです。
それについての危機感を日本側が持っていなかったことがあります。それを補完するものとして挙げたのが「鉱山経営と環境保全の政策」により創出された文化的景観です。これは実を言うと日本側が用意したものではなく、島根県のシンポ
ジウムで外国のパネラーが評価したことでした。
鎌倉の場合も、都市という言葉を使っていいかなど、常に世界に受け入れられるかを検証することが必要です。また平泉はセールスポイントを単純明快な論理構成にして成功しました。寄木細工は非常に危険です。
正しさは常に相対的なものです。世界遺産の基準も常に変化している。過去の成功例にはこだわりません。以下、鎌倉の登録について私の経験と役所で考えたことを、樋口忠彦さんの本『日本の景観』(ちくま学芸文庫)を基にお話しします。
鎌倉の景観は背後に山を背負っている「蔵風得水」の地、四神相応の地です。樋口さんによれば、この景観は人間にとって最も快適で、母の胎内から眺めているのと同じ眺めだといいます。鎌倉の景観は特徴的ですが、従来の城塞論には反対です。
平和な空間、住んでいる人間が安心できる空間だと考えています。
鎌倉の範囲はどこまでか、およそ西は片瀬といい、江ノ島縁起では龍口寺を龍ノ口であると書いてあります。安全を保障しているのは鎌倉を取り巻く山です。本当に鎌倉の地形は龍体に見えたのでしょうか?
最後に樋口さんがまとめておられるのは、時間だけにこだわっていると、ついつい細かいことや目に見えることだけに目を奪われてしまいます。生き生きとした生活環境を忘れてしまいかねない。武家の安心できる、だれもが安全だという地形環境をこれ以上壊すことは一切やめなければなりません。
現実に住むのをやめることはできない。都市化したなかで、皆さんが心安らぐような景観に変えていく。それをやりますということを世界にアピールしていく。山と若宮大路、山に囲まれ谷戸に住む都市。
武家の政権を守護する、私流に言うと、龍神が取り巻いている誰もがあこがれる都。武家が暴力集団であることは間違いないが、片方に暴力、もう片方には平和を望む母親のような心を持っていた。誰もが鎌倉に来るたびに、山々に囲まれているというのは、本当に心が安らぐのです。
世界遺産登録を申請するときに、山々に囲まれた景観の素晴らしさと、こういうふうな仕組みで山の景観を向上させていきますということを、今度の申請書にいれることができたら、私は世界遺産にすることができるのではないかと思います。
もうひとつ、市民の皆さんへのお願いは、石見、平泉から鎌倉へ、次にめざす都市へと、登録経験を大きな遺産として引き継いでもらいたい。駅伝スタイルでタスキを渡し、タスキが切れることのないようにつないでいってもらいたいと願っています。(了)
『武家の古都・鎌倉』塾 第3回
講義「谷戸の寺院と庭園」
2007.10.13(土)9:30-12:00 鎌倉生涯学習センター
谷戸を開発して行われた寺院の造営は鎌倉に特異な谷戸景観を生み
やぐらや禅宗庭園などの新たな武家文化を創出しました
◎ 講義要旨
講義の第2回目は「谷戸の開発と庭園―鎌倉の原風景―」と題してお話をさせていただきました。
1.谷戸の開発
武士は土地に根ざした領主であり、自分の館の周辺の谷戸を耕地に開発していました。鎌倉を本拠として政権を開いた武士は、自らに与えられた谷戸を開発して館や寺院を造営しました。
源頼朝が奥州攻めの戦死者供養のために建立した永福寺(跡)は谷戸の微高地を造成していますが、谷戸の造成が本格化するのは13世紀中頃からで、建長寺の造営が大きな転機になっているようです。建長寺は我が国最初の禅宗の専門道場で、初めて谷戸の大規模な造成を行いました。
当時の中国の大禅宗寺院は山岳寺院であり、尾根を造成して伽藍を造っていましたが、鎌倉では稜線の狭い急峻な山稜であるといった土地の特性によって谷戸を大規模に造成して伽藍を造りました。このため谷戸には造成によって造られた垂直の崖である切岸が見られ、
切岸を背景とする谷戸の景観は鎌倉の独特の景観となっています。建長寺は細長い谷戸を敷地として造成したため、細長い一直線の伽藍配置となり、これは日本禅宗寺院の伽藍配置の基準となりました。これに続き円覚寺が建立されますが、建長寺が主要な堂を一面の平地に建てているのに対し、
雛(ひな)壇状の敷地を造成し、堂を建てています。こうした二つの敷地造成法は覚園寺と浄光明寺など他の寺院でも認められるものです。寺院の敷地造成に当たり岩山を開削して造成したことは寿福寺に蔵六庵を造営した際の中国人禅僧大休正念の
げにも示されています。谷戸造成は武士による鎌倉独特の土地利用を示しています。
2.やぐら
やぐらは鎌倉を中心に造られた石窟です。13世紀末頃から16世紀頃まで営まれ、中国石窟寺院の影響を受けて成立したとされています。五輪塔や宝篋印塔などの石塔が安置され、主に火葬骨が納められる墳墓堂でした。
やぐらは石窟文化の東限における特異な発展形態であり、武士の宗教観を示す貴重な遺産です。
3.鎌倉の庭園
鎌倉の庭園は永福寺から始まります。源頼朝は永福寺において、平泉で造られていた浄土を表す庭園(浄土庭園)を鎌倉に導入しました。称名寺庭園(横浜市金沢区)はその一例です。こうした前提の下に、鎌倉では禅宗寺院に独自の庭園が創出されます。
中国の大禅宗寺院では方丈裏には庭園は存在しませんでしたが、鎌倉では谷戸の造成を行って敷地を造成したため、治水の必要から伽藍の最奥にある方丈の奥には池が造られていました。この池は雨水などの調整と方丈への来客をもてなす庭園、
さらに禅宗寺院内の境致である景観美の表現を併せ持ったものです。瑞泉寺庭園はそれを独自に発展させ、岩盤を掘り込んだ独自の景観を創出しています。こうして成立した禅宗寺院の庭園は夢窓疎石により禅の修業、またその発露と位置づけられ、日本庭園の発展に重要な役割を果たしました。
谷戸を開発して行われた寺院の造営は鎌倉に特異な谷戸景観を創出し、やぐらの造営や禅宗庭園の創出など、新たな文化的発展を導き出しました。
(鎌倉市世界遺産登録推進担当 玉林美男)
めざせ!世界遺産登録
あなたも世界遺産登録を進める活動に参加しませんか?
若宮大路の緑化などに尽力 NPOかまくら緑の会
町の基線道路である若宮大路などでの整備奉仕活動は、昭和49年(1974)に始まりました。若宮大路は源頼朝が築いた鶴岡八幡宮参拝のために作られ、現在は鎌倉を象徴する道路として利用されています。でも戦後は、松籟の松並木は枯れ、路盤も傷み、往時の面影も失われていました。
そこで地域の商店街の有志が立ち上がって、残った松の間に桜を植え、並木を整備して明るさを作るため、ボランティア活動を始めたのが発端です。その後、行政の修景計画で景観を取り戻しました。電線の地中化、下水道整備、街路灯の設置なども進みました。
「桜を植えるだけでなく、後の手入れを十分行うようにとの行政の指導を受け、微力ながら継続して作業を続けてきました。世界遺産登録のコアゾーンとして、行政の届かない周辺整備にも配慮し、街を明るくするため、
定期的に花植えやクリーン運動を行っています」と「緑の会」理事長の高柳英麿さんは言っておられます。
6月の世界環境デーには、市内外からボランティアを募り、一緒に汗をかきました。毎月第2土曜日を中心に基本的には月1回のペースで市民のボランティアによる若宮大路の整備活動を続けています。参加していただける方は、高柳理事長までお申し越しください。
世界遺産を実際に訪ねよう
鎌倉の世界遺産と秘宝を訪ねる会
鎌倉の世界遺産登録も近いと言われていますが、まだ世界遺産について十分知られているとは思えません。
そこで鎌倉の世界遺産の史跡や文化財を調査研究し、広く人々に知らせることを目的として、「鎌倉の世界遺産と秘宝を訪ねる会」が平成19年6月に発足しました。会代表の内海恒雄さんを講師に、世界遺産候補地とその秘宝を訪ねる特別拝観や講演会を行っています。
7月は「鶴岡八幡宮見学会」が行われ、史跡や建物を中心とする詳細な案内があり、改めて世界遺産候補地の鶴岡八幡宮の文化財の素晴らしさに感銘しました。
9月は「鶴岡八幡宮の史跡と文化財の見方」の講演会があり、パワーポイント等による豊富な資料を使って、八幡信仰、若宮と本宮の違い、拝殿よりも立派な本殿、宝物の見方など今までとは違う八幡宮が見えてきました。
10月は「建長寺の史跡と秘宝」を訪ね、世界遺産としての史跡や文化財(建物・仏像・庭園等)の持つ意義や見方などを知り、回春院や禅居院の特別拝観もしました。
11月は「寿福寺・英勝寺の歴史と秘宝」を訪ね、公開されていない両寺の本堂の特別拝観などをしながら、両寺の武家政権との関わりなどを知ることができました。
事務局の戸村さんは「4・5・9・10月の見学会(6・11月は講演会)は、ふだん見られない秘宝の特別拝観もあり、自由に参加して世界遺産を知ってください」と話しています。参加方法等は戸村さん
までお問い合わせください。
「古都鎌倉の世界遺産登録』ってなに?
第5回 武家の守護神(鶴岡八幡宮、荏柄天神社)
鶴岡八幡宮と荏柄天神社は、鎌倉時代から江戸時代を通じて、武家の守護神として崇められていました。これは、平将門が10世紀に関東で反乱を起こした際、「八幡神と天神より新皇の位を授けられた」ということが、後の『将門記』に記述されていたことから、
源頼朝が、源氏の氏神であった八幡神を祀る鶴岡八幡宮と併せて荏柄天神社を関東の新しい政権の守護神とし、これを鎌倉幕府に引き継いだことに由来するとみられます。現在、鎌倉時代の建物として唯一残されている荏柄天神社本殿は、
江戸時代初めに幕府が行った鶴岡八幡宮の修理の際に、鎌倉時代末に建てられた「鶴岡八幡宮若宮」を遷したものであり、「この2つの神社を祀る者が、源頼朝以来の武家政権の正統な後継者である」と考えていたことを示しています。
そのため両社は、江戸時代を通じて幕府が対で修理を行ってきました。このように、鶴岡八幡宮と荏柄天神社は、鎌倉幕府滅亡後も武家の守護神として大切に伝えられて
きた貴重な遺産なのです。
News! the 世界遺産
『鎌倉彫をめぐるあれこれ―鎌倉彫を世界遺産に?』 三浦勝男さん講演会、開催
2007年11月23日金)、鎌倉市立御成小学校体育館で、伝統鎌倉彫事業協同組合と鎌倉世界遺産登録推進協議会主催の、鎌倉彫と世界遺産登録に関する講演会が開催され、三浦勝男さん(鎌倉国宝館館長)による「『鎌倉彫をめぐるあれこれ―鎌倉彫を世界遺産に?』と、
岩下英夫さん(神奈川県工芸指導所鎌倉支所長)による『伝統工芸"鎌倉彫”中世の輝きを今に』の講演が行われました。当日会場には予想を上回る参加者が集い、頼朝の時代に起源を発する鎌倉彫の歴史と魅力、新たな可能性に熱心に聞き入りました。
◎三浦勝男さん講演要旨
鎌倉彫の本源は、“鎌倉仏師”である、といわれています。その本姿は彫刻であることを考えますと、間違いないことでしょう。
鎌倉に初めて仏師を招いたのは、武士の町を築いた源頼朝でした。文治元年(1185)頼朝は、南都(奈良)の大仏師である成朝とその弟子たちを鎌倉に招引して、勝長寿院の本尊である丈六(約4.85m)の阿弥陀如来像を造らせました。
成朝は、南都仏師の正系で、当時は興福寺を中心に活躍していたとみられますが、残念ながら後継者がなく、系統は絶えてしまい、鎌倉に根づくことはありませんでした。
その後、相応の仏師が鎌倉に来ますが、現在にまで影響を与えたとみられるのは、有名な運慶(1223年没)の登場でした。彼の作品は、文治2年(1186)伊豆韮山の願成就院と文治5年(1189)横須賀浄楽寺に残されていますが、鎌倉へ来たかどうかはわかりません。
力強い作風は、鎌倉の武士に好まれ、その流れをくむ仏師たちが引き継いで仏像を造り、やがて鎌倉仏師が誕生しました。初祖は、幸有といわれ、遺品は建長3年(1251)作の円応寺初江王坐像ということになっています。
建長5年(1253)に、禅宗修行の専門道場である建長寺が創建されてからは、鎌倉を中心とした禅宗文化の影響は多大で、建長寺に残る重文須
弥壇(しゅみだん)は、鎌倉彫の最も古い作品といわれています。
とはいえ、かつて鎌倉に存在した仏所や大工所の存在も忘れてはならないと思います。例えば、鶴岡八幡宮に付属した鶴岡仏所は、大仏師加賀法印や大工岡崎氏の世襲。建長寺仏所は、仏師運朝とその一派が活躍した拠点ともみられ、大工においては、扇ガ谷住の河内氏が引き継いで活躍されました。
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円覚寺仏所は、大工高階氏が、そして寿福寺仏所の確認もされ、寿福寺門前に居住した鎌倉仏師のすばらしい活動は、現代鎌倉彫の下地を練り上げた、といえましょう。
加えて、宅間仏所の存在も重要であります。現在の報国寺や華頂宮邸のある谷は、宅間ヶ谷とよばれ、京都の宅間為遠の三男為久(ためひさ)とその一派が居住し、関東宅間派を形成した、いわば“宅間派工房”とみられる場所なのです。その遺品の一つに西御門来迎寺の地蔵尊(旧報恩寺本尊)があります。
しかし、鎌倉幕府の滅亡から徐々に造像を依頼する檀那の存在が薄くなり、近世の江戸時代には、尊像の製作は少なくなり、仏具や食器のたぐい、あるいは位牌や建造物の一部彫刻などに仕事の範囲を広めていったことがわかります。
先般、東京芸大大学院の教授で彫刻家の薮内先生にお目にかかりましたおり、「後藤運久の模刻像を拝見しましたが、実にうまいもんだね。あのようには、なかなか彫れないよ」と申されておりました。運久こそ、現代鎌倉彫の基盤を築いた人なのです。
同じく昨秋のこと、平安仏所の江里康慧師の夫人で、截金(きりかね)の人間国宝佐代子氏にお目にかかりましたおり、「鎌倉彫に截金をほどこしたらどうなりましょうか」と伺うと、「おもしろい、機会がありましたらやってみたいですね」と申されておりましたが、
残念ながら、去る平成19年10月、62歳で他界されました。お話の終わりちかくに、「鎌倉彫は、世界に一つしかない鎌倉の遺産ですものね」と結ばれた一言が胸に響きました。
同じように、武家の首都鎌倉も、世界に一つしかありません。拙題に「鎌倉彫を世界遺産に?」と付したのは、ともかく、かまくらの伝統技術を後世に伝える、鎌倉びとの心の遺産、と考えて頂ければ幸いと思ったからにほかありません。(鎌倉国宝館館長)
シンポジウム「外国人から見た鎌倉」開催
2007年12月8日(土)午後4時過ぎから、鎌倉商工会議所ホールで、鎌倉ペンクラブと鎌倉世界遺産登録推進協議会主催で、シンポジウム「外国人が見た鎌倉」を開催しました。
シンポジウムに先立ち、JCN鎌倉・鎌倉テレビが世界遺産番組「鎌倉永劫」を映写、次いでパネラーの1人陳麗華さん(中国)が、琵琶を演奏しました。ホールは満員の来場者で埋まり盛会でした。
◎シンポジウム要旨
早乙女貢(司会)
鎌倉は12世紀以降、日本人の精神に影響を与えた武家発祥の地であり、山と海に囲まれて、外から攻めることができない地勢です。世界遺産に当然登録されるべきだと思っています。鎌倉にかかわっておられる外国の方も同じ気持ちではないのでしょうか。
リシャール・コラスさん(フランス・シャネル社長・在日35年)
エールフランスの機長だった父に勧められて18歳のときに初めて日本に来ました。4年前に鎌倉で住まいを探しました。私のお墓も鎌倉に決めています。
パリの街づくりの基本は、現在あるものは壊さないで残していくということです。日本では遺産相続が大きな問題です。相続にあたって、70〜80%をとられるとなると壊すしかない。ウサギ小屋みたいなものを作らざるを得なくなるのだと思います。
町のど真ん中に山があること自体珍しいことです。古都の寺があり、海も景観に自然に溶け込んでいます。世界遺産とは人間が作った美しさだけでなく、自然を生かした美しさを対象にしたものでもあります。ここに鎌倉の魅力があります。
エルファディング・ズザンネさん(ドイツ・景観と交通の研究・慶大総合政策学部講師・在日9年)
海外で暮らしてみたいと思い、日本に行こうとしたら、「何でそんな危ない国に行くの」と言われました。地下鉄サリン事件と阪神大震災のあとでした。今は街づくりと交通のかかわりで月に2度、鎌倉に来ています。
ドイツでは70年代、80年代以降、中心市街地を古いままに残しておこうという機運が表れてきました。きっかけは街の個性がないと市街地が滅びてしまうということがわかったからです。
沖縄大好きといいながらテーマパークやショッピングセンターだけに目がいく若者たちにもっと昔からの伝統を見直してもらいたいと思います。古代ローマの道のように世界遺産登録に当たっては、道路も重要です。
陳麗華さん(中国・琵琶演奏家・在日24年)
最近「観音さま」という琵琶の曲を作りました。作曲の前に観音信仰が何なのか分からず、大船観音を回り、長谷観音に来ました。初めて拝顔したとき、何か分からず涙が出ました。毎月18日の縁結びの日に長谷観音で、ひたすら写経を続けるようになりました。
鎌倉のお寺は行く先々でお金を払わなくてはなりません。日本の文化遺産の修復などを見て、中国人たちは「古いものを非常に大切にしている」と感心しています。
中国では文化大革命で文化遺産をみな壊してしまいました。日本では、若い人たちがどれほど文化遺産の保全を考えてくれるのか、ちょっと不安です。
ニコラス・レナハンさん(英国・浄妙寺の庭園制作・造園技師・在日5年)
日本と英国の庭づくりの違いは、そのときに見たものが最高とする日本に対して、英国はオーケストラのように植物が重なって常に変化していくことです。日本の庭園の美しさは、静かな環境の中で見るものというイメージです。夢窓疎石が作った禅の庭ということで建長寺の庭園に興味を持ちました。
日本と英国では景観の違いはあるが、同じ精神性を感じています。英国の大学で禅宗の庭がはじめて造られたところだと教えられました。世界遺産登録をめざす鎌倉は、もっと禅宗と庭の歴史に興味を持ってほしいと思います。 (了)
日本イコモス研究会、鎌倉市で開催!
日本イコモス国内委員会(JPICOMOS)の前野まさる委員長はじめ会員20人は2007年10月28日(日)、鎌倉の世界遺産登録に向けた現状視察を行いました。
国際記念物遺跡会議(イコモス)は、記念物と遺産の保存に関する国際憲章(ヴェニス憲章)を受けた国際NPOで、1972年にユネスコで世界遺産条約が採択された後は、世界遺産登録審査、モニタリングの活動を行っています。
鎌倉では石渡徳一市長の挨拶を受けた後、世界遺産担当の原節子部長ら職員の案内で、候補地になっている建長寺、鶴岡八幡宮、浄光明寺、北条氏常盤亭跡を見学しました。
最後に市役所で世界遺産登録の現状について、活発な意見を交わし、英語のレポート作成にあたって慎重な内容チェックが必要といった具体的な提言もなされました。
シンボルマークご応募276点!ありがとうございました
鎌倉の世界遺産登録をめざして活動する「鎌倉世界遺産登録推進協議会」のシンボルマークについて、この度、入選作品12点が決定しました。応募作品は、国内外から寄せられた力作276点にのぼりました。
デザインの専門家による審査会を経て選ばれた入賞作は、いずれも素晴らしいものです。さらにこの12作品の中から、最優秀作品1点を選び、本推進協議会のシンボルマークとして活用する予定です。
最優秀作品の発表は、1月末頃を予定しています。どうぞお楽しみに!
◎ 入選作品は、推進協議会HPで公開しています。
Watch! the 世界遺産
11月中旬、鎌倉駅前のカトレヤギャラリーで、当推進協議会理事で作家の早乙女貢さんの世界遺産をテーマにした絵と写真展が開かれました。武家の古都・鎌倉塾開講記念講演で話題になった絵が展示され、
その迫力に圧倒されたり、早乙女さんと記念写真に収まる見学者で賑わい、世界遺産への理解深まる芸術の秋を満喫していました。
"源頼朝会”は、源頼朝を通して鎌倉の歴史を研究しようというグループです。その有志の皆さんが集まって、頼朝の命日である毎月13日の早朝には、墓地周辺(法華堂跡)から白旗神社の境内一円の清掃を行っています。
ときには、小中学生の団体が勉強しながらお手伝いする微笑ましい光景が見られます。
県内の中学生を対象に、神奈川県教育委員会・鎌倉市が行った文化財保護ポスター展で「世界遺産登録をめざす武家の古都・鎌倉」部門の最優秀賞に輝いた川添光樹さん(藤沢市立湘南台中学1年)に、11月4日の表彰式のあと感想を聞きました。
「絵を描くことが大好きで、日本の古都をイメージする竹と武士の象徴である兜を組み合わせた作品は、自分で
も満足できる仕上がりでした。鎌倉へは、小学生の頃に3回行ったことがあって、大仏様が好きです。隣の市の鎌倉が世界遺産に登録されると嬉しいです。」
☆このポスターをお店等に掲示していただける場合は無料でお配りします。推進協議会事務局までご連絡ください。
Event! the 世界遺産
主催/鎌倉世界遺産登録推進協議会 共催/鎌倉の世界遺産登録をめざす市民の会
ワークショップ『世界遺産に鎌倉を』
市民の声にお応えして、世界遺産についてのワークショップを開催します。今一番知りたい世界遺産について、テーマ別に「みんなで聞いて、みんなで話す」ことから始めます。鎌倉の未来について、ご一緒に考えませんか。
とき/2008年3月15日(土) 13:00〜17:00 ところ/鎌倉・御成小学校多目的ルーム(鎌倉駅西口/中央図書館手前) 参加費/無料
申込方法 往復ハガキ、FAX、メールに(1)〒住所(2)氏名(ふりがな)(3)電話番号(4)年齢(5)職業(6)所属団体(ボランティア団体等)を記入して下記へお送りください。
締切/2月29日(金)必着 定員 70人(抽選) 問合せ・応募先/〒248-8686 鎌倉市世界遺産登録推進担当「ワークショップ」係
TEL. 0467-23-3000(内線2674) FAX.0467-23-1085 E-mail: sekaiisan@city.kamakura.kanagawa.jp
4月13日(日)〜20日(日) 主催/鎌倉市観光協会
第50回鎌倉まつり「鎌倉の世界遺産登録」
今回のメインテーマは「鎌倉の世界遺産登録」です。若宮大路のパレードに源頼朝・政子の行列や姉妹都市の武者行列等を予定。また下記の行事には当推進協議会も参加します。市民の皆様のご参加をお待ちしています。
プログラム (1)13日(日) 若宮大路パレード (2)14日(月)〜18日(金) 世界遺産候補地を中心にした寺社拝観めぐり(講師解説つき)
(3)15日(火)〜21日(月)〈きらら鎌倉市民ギャラリー〉 写真コンクールと世界遺産登録に向けての美術展示
(4)19日(土)〈きらら鎌倉地下ホール〉 世界中の世界遺産に精通している工藤父母道さん(プロジェクト"ワールド・ヘリティッジ"総括/(社)日本ユネスコ協会連盟評議員)の映
像による世界遺産の講演会 主催・問合せ先/鎌倉市観光協会 Tel 0467-23-3050
鎌倉世界遺産登録推進協議会ホームページ只今更新中!
http://www.shonan-it.org/KWH-kyogikai/
古都鎌倉の世界遺産登録についての最新情報や、会報バックナンバー、世界遺産MAPなど、
編集後記
第6 号はまずシンポジウム『ここまできた鎌倉の世界遺産登録』を取り上げました。鎌倉の登録への取り組みの現状と課題はようやく市民と共有できる所まできたようです。
それに先立ち行われた基調講演で、長年鎌倉の世界遺産に関わってこられた伊藤正義さんから、鎌倉の世界遺産登録への具体的な示唆をいただけたのは、嬉しい限りでした。
協議会の事業もいろいろ進められていますが、「武家の古都・鎌倉」塾は早乙女貢さんの記念講演以降5回に及ぶ講義と現地講義が終わりました。来年も継続されるようですから、世界遺産についての理解をより多くの人に広め、
さらにより深い理解をしていただくことに繋がるのはありがたいことです。
『外国人から見た鎌倉』シンポジウムでは、世界遺産登録は鎌倉の価値を世界の人々に向けて発信するわけですが、鎌倉の中しか見えない私たちにとっていわば世界の人々からの貴重な提言をいただいたように思います。<広報部会長 内海恒雄>