平成23年度 総会開催
2011年4月26日(火)、鎌倉商工会議所地下ホー
ルにおいて、鎌倉世界遺産登録推進協議会(以下「推
進協議会」)の平成23 年度総会が開催されました。
○松尾崇推進協議会会長が抱負
第1部の定期総会の冒頭、推進協議会会長である
松尾崇鎌倉市長から挨拶がありました。まず、昨年、
養老孟司前会長
から会長職を引
き継いで早1年、
多くの会員の協
力により推進協
議会の活動が活
発に行われたこ
とに対し、感謝
の辞が述べられ
ました。また、市長である自分が会長を務めているこ
とに関し「推進協議会の会長は市民の代表の方がふ
さわしい」という持論は変わらないが、世界遺産登録
に向けてこの重要な時期に、会長の交代などにより推
進協議会の活動を滞らせることは避けるべきであり、引
き続き会長として推進協議会の活動に全力で取り組
むことを明言しました。
○平成22 年度事業報告
役員紹介の後、議事に入り、最初に平成22年度事
業について内海恒雄広報部会長より映像を利用しな
がら報告されました。講座や講演会、コンクールな
ど主催・共催したイベントは17 事業を数え、多くの方
が参加されました。また「武家の古都・鎌倉」ニュース
やマップの発行、さまざまな掲示物の作成、啓発グッ
ズ等を活用した広報活動、推進協議会有志による近
藤誠一文化庁長官表敬訪問などが報告されました。
続いて、事務局からの決算報告、監査委員からの
監査報告があり、全て承認されました。質疑応答では、
会場の参加者より、市民に対して世界遺産登録の本
質、これからの「まちづくり」についての説明が足
りないということ、必要だと言われ続けながら鎌倉
に博物館がないことをどう考えているのか、御成小
学校講堂の活用について、などの質問や提案が出さ
れ、松尾会長や内海部会長から、推進協議会でも
今後論議し、また提案については取り入れていきた
い旨の回答がなされました。
○平成23年度事業計画を承認
次に、奴田不二夫登録推進事業部会長から、平成
23年度の事業計画について説明がありました。奴田
部会長からは、鎌倉の世界遺産登録に向けて先行き
がみえてきたことを踏まえ、これまでの広報・啓発
活動に加え、さらに充実した活動を展開していくと
いう活動方針が示された後、今年度のイベント事業、
広報活動事業、その他事業の説明がなされました。
続いて、事務局から平成23年度予算の説明があり、
いずれも承認されました。その後の質疑応答では、
再度博物館の建設について、事業部会の中に博物館
建設の検討委員会の設置は可能か、との質問や、基
金の設置などの意見も出されました。奴田部会長か
らは、会員の賛同が得られれば、委員会の立ち上げも
含めて事業部会で議論する旨の回答がなされました。
第1部定期総会閉会後、引き続いて第2部の「世
界遺産登録に関する準備状況について」が市から報
告されました。
平成23年度総会 第2部
世界遺産登録に関する準備状況について
1.これまでの主な取り組みの経過
日本国は、平成4年にユネスコの世界遺産条約を
批准し、同時に今後世界遺産として推薦する予定の
資産リスト、いわゆる暫定リストに「古都鎌倉の寺院
神社ほか」を記載し、ユネスコに提出した。ここに鎌
倉における世界遺産登録の取り組みがスタートした。
この後、平成8年に鎌倉市総合計画に位置付け、平
成9年度から発掘調査などの学術的な調査を開始し
た。また平成14年2月には、学識者による「鎌倉市歴
史遺産検討委員会」を設置し、登録に向けた考え方
の検討を始めた。これらを踏まえて、平成16年には
同検討委員会から、世界遺産登録に向けて「武家の
古都・鎌倉」という方向性が示された。また、市役所
内に世界遺産登録推進担当が設置され、平成16年度
からは国指定史跡の指定、保存管理計画書の策定
等、候補資産の整備を行うとともに、緩衝地帯(バッ
ファゾーン)の検討・確保など地元自治体としての必
要な作業を行ってきた。
平成18年7月に「鎌倉世界遺産登録推進協議会」
が発足し、市民と行政が協働で世界遺産登録をめざ
す態勢が整った。現在82の団体が参加している。
平成19年7月に神奈川県・横浜市・鎌倉市・逗子
市の4県市による「世界遺産登録推進委員会」が設
置され、世界遺産登録に向けて協力連携している。また、
海外専門家との意見交換を行うため、文化庁と4 県
市の共催により国際専門家会議を計4回開催した。
平成21 年11月には推薦書案をまとめるため、学識
者や文化庁の文化財調査官を含めた「武家の古都・鎌
倉」世界遺産一覧表記載推薦書作成委員会、及びプ
ロジェクトチームが発足した。この推薦書とは、世界
遺産登録に向け国がユネスコに提出しなければなら
ないもので、国と4県市が協働して作成作業に取り組
んでいる。
2.推薦書(案)の概要
ここで推薦書案の骨子である、顕著な普遍的価値の
証明、世界遺産となる実際の構成資産、そして保護のた
め資産の周囲に設定する緩衝地帯について説明する。
ユネスコによると「顕著な普遍的価値」とは、「国家
間の境界を超越し、人類全体にとって現代及び将来世
代に共通した重要性をもつような、傑出した文化的な
意義」とされている。つまり、鎌倉が世界遺産に登録さ
れるためには、他に類例がなく、将来にわたってしっ
かりと引き継いでいくべき価値があることを証明しな
ければならない。
鎌倉の顕著な普遍的価値は、やはり、日本における
武家政権の発祥地であるというところにある。そして、
武家の政治支配体制から、特に禅宗の影響を受けな
がら「武家文化」がここで生み出されたこと、さらに、
「三方が山、一方が海」という要害的地形に、寺院・武
家館・切通などの、防御上・行政上・物流上の重要な
施設が機能的に配置され、山と一体となっているという
世界でも稀に見る武家の都が形成されたことにある。
次に構成資産についてであるが、鎌倉の山稜部・
自然地形と、それらに配置された社寺境内・考古学的
遺跡が対象となっている。後世の開発により、物理的
にいくつかのパーツに分断されているが、本来は一
つの資産として捉えるものである。
世界遺産登録にあたっては、資産が国内法規等で
確実に守られていることを示していくことが求められ
ているが、構成資産のうち山稜部については古都保存
法、社寺境内等の重要な要素については文化財保護
法により確実に守られており、世界遺産として求めら
れる要件を満たしているものと考えている。
最後に緩衝地帯についてであるが、緩衝地帯とは、
世界遺産の価値や環境を保護するため、周囲に設け
られる利用制限区域のことである。なお、この緩衝地
帯については、現行の法規制等を活用して、景観や
環境に与える影響をコントロールしていくものである。
3. 今後のスケジュール(予定)
今後については、文化庁が主体となり決定していく
ため、具体的な日程は未定である。ただ、この3月の第
4回国際専門家会議においてある程度の評価が得ら
れたので、地元4県市としては、それをもとに今後推薦
書案を精査し、本年度内に文化庁からユネスコへの推
薦が図られるよう、最大限の努力をしていく。
この見込みどおり進捗した場合、9月には推薦書
の暫定版、翌年の1月には正式版がユネスコへ提出
される。そして、ユネスコの諮問機関であるイコモスに
よる現地調査を経て、世界遺産委員会に諮られ、登
録の可否が決定していくような運びとなる。このように
最短で進めることができれば、平成25年度の登録が
可能である。
本年度は、鎌倉の世界遺産登録に向けた正念場と
もいうべき年となる。
東京文化財研究所国際研究集会・木下直之さん基調講演
廃仏毀釈、関東大震災、太平洋戦争・・・文化遺産の危機と鎌倉
東京文化財研究所(東文研)の国際研究集会(平成
23 年1月)の基調講演で、東京大学大学院人文社会系
研究科教授の木下直之さんは、鎌倉を例にあげて文
化遺産が壊滅的な危機に直面しながら「復興」が図
られてきた近代の日本社会を例証されました。講演
と直接お聞きしたことを合わせた「危機と鎌倉」の
要旨です。
鎌倉の文化遺産の危機
鎌倉は192 3 年に関東大震災に見舞われ、多くの社
寺が倒壊した。1870 年前後の廃仏毀釈でも、鎌倉の
文化遺産は大きな打撃を受けている。私の敷いた枠
組みは日本社会の近代、また鎌倉の文化遺産、神仏
分離と政教分離という現代社会をいまなお拘束する
ふたつの「分離」政策の中にとらえることである。
廃仏毀釈で破壊された鶴岡八幡宮
1868 年に明治政府が発した神仏分離令を受けて、
八幡宮は、境内にあった12の寺院の僧侶の還俗を決
め、さらに仏教系の建造物の破壊に着手した。関係者
の証言によれば、わずか10日ほどの間に、大塔をは
じめ、1732 年(享保17年)の境内図にははっきりと描
かれている仁王門、護摩堂、薬師堂、経蔵、鐘楼など
が姿を消し、仁王門跡地に白木の鳥居が建てられた。
20 01年に起こったバーミヤンの大仏破壊を、国際社
会が傍観せざるをえなかったように、1870年前後に日
本各地で起こった破壊と混乱を、誰も止めることはで
きなかった。
関東大震災
1923 年の関東大震災では建造物も宝物も大きな
被害を受けた。廃仏毀釈の破壊とは異なり、古社寺保
存法という法制度などもあり、復興は問題なくスター
トした。しかし法律が奈良・京都に手厚く、鎌倉に手
薄いことに対する不満が高まり、博物館の建設が求
められた。博物館建設運動は、古代文化偏重に対す
る中世文化の主張という形をとった。1928 年に鶴岡
八幡宮境内に実現した鎌倉国宝館である。国宝館に
は鎌倉の各寺院から仏像が集められ、保管されるこ
とになった。1870 年から数えれば、ほぼ半世紀ぶりに、
鶴岡八幡宮境内に仏像が戻った。
太平洋戦争
鎌倉の文化財は太平洋戦争の間は、ほぼ無傷だっ
た。しかし1945年の敗戦は、目には見えない打撃を鎌
倉の社寺に与えた。ひとつは新しい憲法が政教分離
を命じ、神社が国家の庇護を失ったことである。あと
ひとつは、戦後における戦争の完全否定が、社寺の
戦争「協力」に(あくまでもカッコ付きの協力だが)、
反省を迫ったことである。とりわけ鶴岡八幡宮は、戦
争中には戦勝祈願の場として信仰を集めた。
乱開発について
戦後の乱開発はまぎれもなく鎌倉の文化遺産の危
機だったと考える。しかし古都保存法の成立は乱開発
に待ったをかけたものの、はたして復興があったか
と考えれば、疑問に思わざるを得ない。
鎌倉を世界遺産登録について
「武家の古都」という考えは疑問である。とりわけ、
「武家」という概念がどのように成立し、どのような意
味でわれわれは使おうとしているのかを考えねばなら
ない。「鎌倉武士」という概念には、武士が姿を消し
たあとの、近代日本の期待される武士像が多分に影
を落としているはずである。最近、国立歴史民俗博物
館で「武士とは何か?」という興味深い展覧会が開か
れた。展示は鎌倉武士像に限定したものではないが、
サッカー日本代表チームのサムライブルーにまで視野
を広げて、「武士」あるいは「武家」をわれわれはどう
考えているのか、なぜそう考えるに至ったのかに目を向
ける必要があると痛感する。「武家の古都」はスローガ
ンであって、コンセプトに成り得ていないと思う。
(取材・高木規矩郎)
世界遺産講演会
五味文彦さん講演「鎌倉の武家文化」
平成23 年6月12日、鎌倉世界遺産登録推進協議会
主催・いざかまくらトラスト共催による世界遺産講
演会が、きらら鎌倉(鎌倉生涯学習センター)ホール
で開かれ、日本中世史の第一人者である五味文彦東
京大学名誉教授にお話を伺いました。鎌倉の世界遺
産登録が重要な段階を迎えた今、改めて武家文化と
鎌倉の関わりについて学ぶ貴重な機会となりました。
以下、講演要旨を今号と次号に続けてご紹介します。
鎌倉にとって世界遺産登録とは
鎌倉の世界遺産は、むしろ古都鎌倉の住環境と文
化財をしっかりと護っていくという運動になるので
はないか。世界遺産という大きな目標をめざしている
が、一番重要なのは鎌倉の価値を認識して保全保
護し次代につなげていくことで、その流れの中で世界
遺産が位置づけられなくてはいけないと考えている。
鎌倉の文化財保存と世界遺産登録の展開
昭和41 年(1966)、急激な都市化のなかで乱開発
が起き、それに対する市民運動「御谷騒動」が起きて、
その成果のひとつとして「古都における歴史的風土
の保存に関する特別措置法」が議員立法で制定され
た。この古都保存法が非常に重要な出発点になって
いる。もうひとつ、昭和60 年(1985)に鎌倉駅西側の
今小路西遺跡(御成小学校内)が発掘され、非常に
重要な遺跡であるとして保存運動が起き、鎌倉の考
古学の出発点になった。これを通じて中世都市鎌倉
の研究が大きく広がった。研究面と保存面が合体す
るなかで、平成4 年(1992)に世界文化遺産に登録を
進める物件として「古都鎌倉の寺院・神社ほか」が暫
定リストに掲載され、ユネスコの世界遺産センター
で掲示される。しかしながら、京都、奈良が世界遺産
に認められる中で、鎌倉は体制が整っておらず、今日
まで登録に至っていない。1966 年に市民運動の成果
で京都・奈良と三都の古都保存法制定を勝ち取りな
がら、保存のための体制を整えてこなかったことが
登録できない原因だろう。もちろん、世界遺産になる
こと、それ自体が目的ではないが、それぞれのタイミ
ングであらゆる手段、手掛かりを求めていかないと、
現在の社会の風潮のなかで、住環境はどんどん悪く
なり、文化財は損なわれていく。
登録実現が停滞気味のなか、問題を認識し、平成
12 年(2001)鎌倉市歴史遺産検討委員会が立ち上がっ
て、私はその段階から関わることになった。そのときに、
鎌倉の歴史的な文化財をどのように位置づけるのか、
もう一度虚心坦懐に学者の目で全部当たり直してみ
ようと考えた。鎌倉を場とした武家政権、武家の文化
というものをどのように捉えたらいいのか。それをきっ
ちりとせずに世界遺産をめざしても何ももたらされな
いのではないかと思い、鎌倉の様々な地形に合わせ
た文化の在り方、鎌倉の武家文化の広がり、その前
提となるもの、それらを洗いざらい考えていき、やが
て「武家の古都・鎌倉」という形に落ち着いていった。
「武家文化」コンセプト決定までの2つの障害
平 成4 年以前は、武士=在地領主であり、地域に
力を持っていた在地領主が社会を扇動していったの
だと考えられていた。平成4 年以降は、むしろ朝廷か
ら武力を担わされた番人のような役割とされ、野蛮な
性格を持つなどの否定的・暴力的側面が謳われて
いた時期もあった。しかしながら、武家が政権を700
年〜 800 年も引き継いできたことを考えると、それ
はあまりに一面的であり、多様な側面から確かめて
みるべきと考え、武家文化を正面から見据えて、プ
ラス面もマイナス面も捉えながら位置づけるという
作業をやってきた。折しもラストサムライ、あるいは
サムライ精神というものが国際的に広く見聞されて
いったことも、武家文化を基にしたコンセプトを創
り上げる追い風になった。
もう一つの障害は、鎌倉に根付いた武家文化を考
えるとき、三方が山で正面が海の「自然の要害の地」
という要素で全体を収めていかなくてはならないが、
文化庁の方針で、国史跡でない山々を世界遺産に推
薦するのは難しいということだ。このため、国の史跡
20 数か所の資産の保存管理計画を次々に作って準備
してきたが、これらの資産を合わせても、武家文化や、
鎌倉を舞台にした武家の政権所在地の特質というの
は出てこないのではないかという思いをしていた。そこ
で、国際専門家会議で外国の研究者を招聘し鎌倉を
見てもらったところ、やはり専門家の眼は高く、「鎌
倉において一番大事なものは山でしょう」と、我々
と同様の意見を頂いた。そこで文化庁と交渉し、国
史跡でなくて、古都保存法で十分に管理可能という
方向を引き出し、従来の方針と違って、国史跡と古
都保存法を併せて資産にするという形でもって、世界
遺産というものを練り上げている。
推薦書作成のプロセス
平泉の世界遺産登録の審査過程で、イコモスの指
摘が出て柳之御所を切ったことでもわかる通り、審査
では、それぞれの資産がコンセプトに合うのかについ
て、ちょっと視野が狭いのではと思うほど詰めてくる。
鎌倉の世界遺産も20 数か所がすべて対応すると認め
られるか、難しい問題が出てくるかもしれない。我々
は、山を基本にして、20 数か所の資産を含める形で、
鎌倉の北側の山、東側の山、西側の山、それ以外の飛
び地になっているところを6つか7つくらいのゾー
ンに分けて説明できる仕組みを作っておかなくては
いけない。世界遺産の基準はイコモスの外国の視点
があるので、微妙に少し変わる。それに対応するよ
うな形に持っていく作業が必要と考えているので、
最終的に推薦書ができる段階でこれまでと違ったも
のが出てくるかもしれないが、基本的にコンセプト
は同じで、武家文化を育んだ場であり、他に例を見
ない武家政権の所在地である、この2点で世界遺産・
鎌倉を評価することになる。
武家政権発祥の意義と徳政
武家文化を説明するのは難しいが、武家が何百年
も政権を持って文化の担い手になっていたという例
は、世界で例がない。ヨーロッパでは騎士文化、イス
ラムではマムルーク等騎士階級の存在はあるが、基
本的には文化・政権の担い手ではない。一方日本で
はなぜ武家文化が誕生し、成長・発展してきたのか
を考える必要がある。
武家政権の誕生を考えるとき、鎌倉以前の頼朝の
動きというのが非常に重要で、伊豆の北条にまで遡る。
鎌倉幕府の歴史を描いた『吾妻鏡』の最初は、伊豆の
北条館で、頼朝と北条時政が平氏打倒を命ずる以仁
王の令旨を開く場面だ。『吾妻鏡』においても、鎌倉
幕府の原点はここにあるという意味合いがあっての
記事だろう。令旨を中心にして、貴種の長者である
頼朝と、東国武士団を代表する北条時政が結びつき、
武家政権が始まったと考えられるだろう。
頼朝は、伊豆で旗揚げの直後に下文を出し、「東国
一帯の支配権・統治権を与えられ、東国一帯の民衆
を救う」と最初の段階から打ち出している。これが重
要で、政権の理想、何を政治がもとめていくかが見え
ていると思う。単に平氏打倒を求めて挙兵している
のではなく、東国一帯の民衆を、朝廷と違って統治
していかなければいけないということを標榜してい
る。これが平氏にも奥州藤原氏にもない、全く違っ
た考え方に基づいて出発しているところだ。平氏を
追討した後、元暦元年(1184)に頼朝は『朝務の事』
を院に奏請し、東国北国の民は「徳政」により鎌倉幕
府が安堵するので、西国はそれに倣って朝廷が撫民
し「徳政」を行うように求めている。頼朝の政治は三
代将軍実朝や、後に執権となった北条泰時に受け継
がれた。泰時は徳政政策と訴訟政策を展開し、『貞永
式目』を制定、これはその後の武家政権の法の骨格と
なった。そして頼朝の政治的理想と政策は『吾妻鏡』
を通して、後北条氏・北条早雲から徳川家康に受け
継がれる。
武家文化形成の4 つの段階
鎌倉の武家文化は4 つの段階を経て成長したと考
えている。武家文化の形成に重要な意義を持つのは
鶴岡八幡宮だ。11 世紀に源頼義が由比に鶴岡若宮を
勧請し、12 世紀には義家が整備した。そして118 0 年、
頼朝は大倉御所を建て鶴岡若宮を現在地に移し、若
宮大路を整備した。若宮は従来の神の子で、疫病飢
饉を救うために現れた新たな神である。若宮信仰を
基本においたことで、頼朝の非凡な一つの性格が現
れる。頼朝は鎌倉で独特の精神と倫理を育む基礎を
築いた。鎌倉中の都市領域を定め、道路整備をし、鶴
岡八幡宮で放生会を開く。殺生を生業とする武士が
生き物を放して殺生を戒めるというもので、これは最
も重要な祭礼とされた。また相撲や流鏑馬、競馬な
ど武芸が奉納され、鶴岡八幡宮で始められた神事や
仏事、幕府の御所で行われた年中行事は武家全体の
年中行事を形成し、やがて各地の武士や農民の暮ら
しに取り込まれた。現在の日本人の年中行事を遡っ
ていくとその源流は鎌倉にあり、武家文化の源は鎌
倉で形成されたのである。その中心となったのが鶴
岡八幡宮と幕府御所である。本来なら鎌倉幕府の
あった場所、御所跡くらいが資産にならなければお
かしい。今後重要な問題になるかもしれない。
もうひとつ重要なのは永福寺である。鎌倉初期の
武家文化のひとつの展開で、奥州合戦で亡くなった
人を弔うという新たな精神文化が生まれた。その延
長線上になるのが円覚寺、蒙古襲来の戦没者を敵味
方なく弔うという目的で作られている。
頼朝が亡くなると、蹴鞠や和歌、公家風御所の造営
や陰陽道等、京都風の「王」を護る装置を入れていっ
たのが実朝の時代だ。実朝が作ったお寺が大慈寺で、
仏の慈悲を強調する寺が作られる。京都文化の方向
性をより打ち出したと言ってよい。 ( 次号に続く)
鎌倉市観光協会 会長 井手太一さんに聞く
震災からの復興支援を、まず流鏑馬から
東日本大震災1ヶ月後、鎌倉市観光協会会長の井手
太一さんに、震災後の鎌倉の状況や世界遺産登録な
どについて伺いました。震災では鎌倉も企画の中止
など影響を受けていますが、「世界遺産登録によって、
鎌倉を訪れる人々をも巻き込んだまちづくりを進め
たい」と抱負を語りました。以下、要旨です。
震災の影響と流鏑馬の復活
3 月11 日以降、観光への打
撃は大きかった。八幡宮境内
もこれほど人がいないのは初
めての経験と宮司も言ってお
られた。震災後2 週間はこん
な状況だったが、JRの乗降
データもだんだんと盛り返して、桜シーズンには8
割くらいに戻った。3月17日に理事会で、「祭」と名の
つくものは無理だろうという判断で、4 月10 〜17 日
の鎌倉まつりは中止にした。ところが「決断はちょっと
早かったのでは。せめて流鏑馬くらいは、やって欲し
かったですね」との意見もあり、当初の予定通り4 月
17日に流鏑馬だけ復活させることになった。復興支
援チャリティーとして、オール鎌倉体制で臨んだ。7
月の花火大会は「やらない」というより「できない」と
いうのが現状である。今、集めるべきは義援金だろ
うし、仮設トイレ等のインフラも東北に集中して花
火にまわす余裕はないという。余震の危険性も考え
ると海のイベントは難しい。
息の長い復興支援を
流鏑馬をきっかけに、今後も復興イベントを予定
している。5 月7日の長谷寺と鎌倉宮で追善供養復興
万灯をはじめ、10 月には鎮魂のための演目で薪能
を予定しており、いずれも義援金につなげていく。
復興支援は一過性のものではなくずっと続けていか
ないといけない。来年、再来年と続けていきたいとい
う考えは市長とも一致している。
世界遺産登録は、絶対実現してほしい
私自身、世界遺産には全面的に大賛成で登録に向
けて協力していきたい。登録で鎌倉のステータスを
1 ランク上げたいと思っている。「この町を守る。この
町は汚してはいけない」というきちっとしたステータ
スを作って、おもてなしするだけでなく、そういう気持
ちを持った方に来ていただきたい。そういうまちづく
りをしなくてはいけないと思っている。観光客を増やし
たいというのとは違う、もう一歩上のランクを我々
はめざすべきだと思う。そういう鎌倉を見たくて定期
的に来てくれるようにしたい。市内の整備は少しず
つ進んでいるが、現状はまだ手つかずのところが多
い。「世界遺産の町なのに、これじゃダメだ」と言える
大義名分が生まれる、そういう意味でも世界遺産登録
は絶対必要だ。
平成23 年 秋 のイベントのご案内
涼風立つ頃、鎌倉で『武家文化』に触れてみませんか? お申込方法は広報かまくら等でご案内します。
講演会
推進協議会主催 鎌倉市観光協会共催
もっと知ろう、世界遺産第4 弾
「世界文化遺産と鎌倉」
世界遺産を専門とされる筑波大学大学院教授の
稲葉信子さんに、世界の文化遺産との比較や、世界
遺産登録における視点から、「武家の古都・鎌倉」
の魅力について、お話しいただきます。
◎当日は平成22 年度「世界遺産登録に向けての中学生作文
コンクール」入賞作品の朗読や、県立鎌倉高校の生徒によ
る「かまくら学」の研究成果発表をあわせて行う予定です。
とき 11月13日(日)14 時〜16 時
ところ 鎌倉商工会議所 地下ホール
定員 130名 参加費 無料
推進協議会主催 鎌倉の世界遺産登録をめざす市民の会共催
第5回 ワークショップ
「住んでよく、訪れてよい鎌倉のまちづくり」
鎌倉市は世界遺産登録に向けた準備を国・県・
横浜市・逗子市と進めていますが、今回は世界遺
産にふさわしい鎌倉のまちづくりに関し、松尾市
長等キーパーソンをゲストに迎え活発な話し合い
をしよう、という企画です。従来と同様、鎌倉市民
と首都圏の方々の積極的参加を期待いたします。「住んでよく、訪れてよい鎌倉のまちづくり」
鎌倉市は世界遺産登録に向けた準備を国・県・
横浜市・逗子市と進めていますが、今回は世界遺
産にふさわしい鎌倉のまちづくりに関し、松尾市
長等キーパーソンをゲストに迎え活発な話し合い
をしよう、という企画です。従来と同様、鎌倉市民
と首都圏の方々の積極的参加を期待いたします。
とき 11月27日(日)13 時30 分〜16 時30 分
ところ 市役所講堂
定員 60 名 名 参加費 無料
めざせ!世界遺産登録
鎌倉の世界遺産の要
鶴岡八幡宮
源頼朝は治承4年(1180)鎌倉に入ると、先祖の
源頼義が由比郷に祀った鶴岡八幡(現在の由比若
宮)を現在の地に移し、鶴岡八幡宮として造営しました。
以後、武家政権所在地の中心的存在として、鎌倉
のまちづくりが進められてきました。歴代武家政権は、
鶴岡八幡宮を武家政権発祥地の象徴として保護し、
江戸幕府により造営された若宮や上宮の建物は、国
の重要文化財として守られています。
境内は国史跡に指定されて保護され、鎌倉の世界
遺産登録候補地の要ともいえる存在です。鎌倉時代の
武家文化を伝える行事も行われており特に流鏑馬神
事は貴重なものです。
鶴岡八幡宮には外郭団体として「槐(えんじゅ)の会」があり、
青少年育成・自然環境保護・国際交流などの活動と
ともに、八幡宮の行事を通じて伝統文化の振興を図る
活動として、伝統文化セミナーの開催、「月次祭」の
参列や八幡宮の社の整備活動、流鏑馬の
特別拝観等も行っています。皆様にぜひ
積極的に参加していただきたいとのことでした。
大船からも世界遺産登録を盛り上げる
大船自治町内会連合会
大船自治町内会
連合会は、昭和33
年2月8日に、大船の
自治の向上発展を
めざして設立されまし
た。現在、32 の自治
町内会で構成され、
「安全安心」をモッ
トーに、大船のより良いまちづくりを進めています。大船自
治町内会連合会役員は鎌倉の世界遺産登録に深い
理解を示されており、会長は推進協議会の理事を務
めるとともに、広報部会のメンバーとして活動しています。
平成21年11 月に、推進協議会が主催した「世界
遺産登録推進のための意見交換会(玉縄・大船地
区)」に参加し、推進協議会員や玉縄の町内会の方々
との活発な論議が実現しました。また、連合会・商店会・
企業・行政が一体となって開催している「大船まつり」
では、7 回目となる平成22 年5 月に、推進協議会の
ブースを設けてグッズの販売等の啓発活動を行いました。
岩佐連合会長は「鎌倉の玄関口としての大船の発
展と、世界遺産への登録をめざし、優しさ温かさのある
ふれあいのまちづくりを進めていきたい。」と登録推進の
意気込みを語ってくれました。
「古都鎌倉の世界遺産登録』ってなに?
第19回 建長寺はどんなお寺?
建長寺は、建長五年(一二五三)に
鎌倉幕府第五代執権北条時頼が中
国(宋)の僧蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)を招いて創建し
た、わが国最初の禅宗専門道場です。
寺地は、山稜に入り込んでいる谷
戸を開発することで確保されており、
三門(山門)・仏殿・法堂・方丈を直線
上に並べる伽藍配置は、京都・東
福寺などその後の日本の禅宗寺院の
手本とされました。度重なる火災や
地震によって、創建当初の建物は残
念ながら失われていますが、元弘元
年(一三三一)の様子を描いた「建
長寺伽藍指図」によって、往時の姿
をしのぶことができます。創建当
初から現在まで維持されてきた禅
宗庭園や、蘭渓道隆ゆかりの西来庵(せいらいあん)
をはじめとする塔頭(たっちゅう:禅宗で大寺の
高僧の死後、弟子がその墓塔を守る
ために建てた子院)の存在などにも、
建長寺の特徴がよく表れています。
鎌倉時代の建長寺は、当時世界の
最先端だった中国の学問や文化を学
べる大学のような存在でもありまし
た。北条氏ら武家が、建長寺などの
禅宗寺院で、禅や中国の学問・文化
から大きな影響を受けたことによっ
て、全国にも禅宗寺院が建立される
ようになりました。建長寺は武家と
の関わりを通じて、禅が日本文化の
発展に大きな役割を果たすきっかけ
となった寺院なのです。
Event! the 世界遺産
鎌倉世界遺産登録推進協議会 主催
「平成23 年度武家の古都・鎌倉塾」開講予定
講師:第1 回 岡田保良さん(国士舘大学イラク古代文化研究所所長) 第2回 河野眞知郎さん(鶴見大学教授)
第3回 伊藤正義さん(鶴見大学教授) 第4 回 阿部能久さん(鎌倉市世界遺産登録推進担当学芸員)
とき 平成23年9月24日(土)、10月8日(土)、10月15日(土)、11月5日(土)10 時〜11時3 0 分 ところ 鎌倉芸術館集会室
定員 1 0 0 名(定員超は抽選) 参加費 3,000 円( 全4回分)
鎌倉の世界遺産登録をめざす市民の会 主催 鎌倉世界遺産登録推進協議会 共催
第21回 鎌倉の世界遺産登録連続シンポジウム「仏教から見る鎌倉と世界遺産登録」
現在から未来に向けて、鎌倉のお寺の話を伺います。世界遺産のまちのお寺に関する認識を高めましょう。
パネリスト/高井正俊さん( 建長寺 宗務総長) 仲田順昌さん(覚園寺 副住職) 西岡芳文さん(県立金沢文庫 学芸課長)
コーディネーター/ 内海恒雄さん(推進協議会広報部会長)
とき 平成23 年10月2日(日)13 時30 分〜 16 時30 分 ところ 鎌倉商工会議所ホール
定員 13 0 名(先着順/ 定員になり次第締め切ります) 参加費 500円
申込方法 住所・氏名・電話番号・メールアドレスを明記、はがき・FAX・Eメールで下記へ。
〒248-0012 鎌倉市
御成町9 -1 T EL 04 67- 23 - 6621 FAX 0467 - 23 - 6631 鎌倉風致保存会「世界遺産連続シンポジウム係」
E メール: f u h c h i @ f s i n e t . o r . j p
ドナルド・キーンさん講演とシンポジウム
「日本文化の過去・現在・未来 〜鎌倉の歴史から学ぶもの〜」
日本への帰化の意思を表明されたドナルド・キーンさんにお話しいただき、
ついで「武家の古都・鎌倉」を軸にして富士川義之さん(元東大教授・鎌倉ペンクラブ幹事)、
佐藤美智子さん(鎌倉ユネスコ協会会長・高徳院)が加わりシンポジウムを行います。
とき 平成23 年10月29日(土)14 時〜16 時30 分 ところ 鎌倉生涯学習センター ホール
主催 鎌倉世界遺産登録推進協議会 共催 神奈川県・横浜市・鎌倉市・逗子市世界遺産登録推進委員会
後援 文化庁、鎌倉市観光協会、鎌倉ペンクラブなど
参加費 1000円
※申込の詳細は広報かまくら等でご案内します。
編集後記
推進協議会の総会では、
世界遺産登録に関する準備
状況が報告されました。国
がユネスコに提出する推薦書
?案?の概要では、鎌倉の主
な価値は日本の武家政権の
発祥地で?武家文化?が生み
出されたこととしています。
構成資産は、山稜部・自
然地形と社寺境内・考古学
的遺跡が候補で、従来の文
化財保護法の国史跡に加え
て、古都保存法により守ら
れている山稜部を取り入れ
た画期的なものです。
見込みでは、暫定版の推
薦書の提出予定を九月とし
て、正式版提出の予定から、
早ければ平成二五年度の登
録の可能性が出てきました。
いよいよ鎌倉の世界遺産
登録も正念場の年を迎えま
した。今年度後半は、世界
遺産登録の実現と登録後も
見据えた推進協議会の行事
が相次いで行われます。こ
れらに推進協議会の方々が
仲間を誘って積極的に参加
して、他には見られない市
民参加の世界遺産登録を実
現させたいものです。
広報部会長 内海恒雄
●鎌倉世界遺産登録インフォメーション&放送スケジュール
インターネット
●鎌倉世界遺産登録推進協議会HP
http: // www. shonan-it.org/KWH-kyogikai/
FMラジオ
鎌倉FM(82.8MHz)…… 毎週日曜12 : 0 0 〜 1 2 : 3 0
「湘南鎌倉いまむかし」番組後半「鎌倉世界遺産への道」
ケーブルテレビ
●JCN 鎌倉…… 毎週木曜 17 : 10 〜(当日再放送あり)
7 Days デイリー『一問一答!鎌倉検定の道』