「武家の古都・鎌倉」の世界遺産のエリアの中に、鎌倉からとび離れた称名寺が
加えられているのを不思議に思われる方も多いかと思います。金沢は横浜市の南端で、
古くは武蔵国に属する六浦庄という荘園でしたから、行政区分の上でも相模国に
属する鎌倉とは別の領域であったのです。しかし『吾妻鏡』には、鎌倉の四隅を
守るための陰陽道の儀式「四角四境祭」の式場の一角に「六浦」が挙げられて
いますから、ここが鎌倉時代から鎌倉の一部と見られていたことが分かります。
鎌倉に通じる港湾として栄えた六浦津に連なる金沢の地には、北条義時の孫にあたる
北条実時が本拠を置き、別邸とともに金沢文庫と称名寺を造営しました。
金沢文庫は北条氏の滅亡とともに主を失いましたが、称名寺は極楽寺と並ぶ
関東の律院の中核として存続し、中世の貴重な文化財を守り伝えてきました。
しかし明治維新によって寺領を失った称名寺は存続の危機に直面したのです。
そこで寺宝の散逸を懸念した有識者の支援を受け、昭和5年(1930)に神奈川県が
金沢文庫を再興することになりました。でも当初は名義だけの復興で、「昭和塾」と
いう研修施設の付属図書館というような扱いだったようです。称名寺の池畔に
建設された昭和の金沢文庫は、瓦屋根をのせた鉄筋コンクリート造りの頑丈な建築でしたが、
文化財を安全に保管・公開するような設備は備えていませんでした。
世界的に有名な「金沢文庫本」は江戸時代までにあらかた外部へ流出し、
称名寺にはわずかな什宝以外には何も残っていないと考えられていたからです。
県立金沢文庫が発足して間もなく、称名寺の須弥壇の中に秘蔵されていた
いくつかの大きな長持が金沢文庫に搬入されました。その中には、虫やネズミに
食い散らされてバラバラになった膨大な古書の残骸が収められていました。
初代文庫長となった関靖らが整理を進めたところ、中世の仏典の裏側に多量の
手紙が残っていることが発見されました。鎌倉時代末期に執権をつとめた金沢貞顕の
書状をはじめ、幕府中枢にいた人物たちの生々しい息吹きが浮かびあがってきたのです。
鎌倉幕府の通史である『吾妻鏡』が、蒙古襲来の前(文永3年・1266)で中断して
いるので、鎌倉時代後半の歴史を伝える資料はきわめて少なかったのですが、
新たに出現した「金沢文庫文書」は、その欠を補う貴重な資料として歴史学界に大き
な波紋を広げました。同時に発見された「称名寺聖教」には、学僧たちが京都・奈良、
さらに中国の新しい学問を鎌倉に導入しようと努力していた様子や、鎌倉で芽ばえた
念仏や禅・法華などの新しい仏教の胎動を示す資料が含まれていました。
北条実時が中国から取り寄せた「宋版一切経」とともに、鎌倉時代の文化を
知るためには不可欠の文化財となっています。
鎌倉文化の象徴とも言える金沢文庫は、平成になって収蔵・展示設備をそなえた
新館に移りました。称名寺に伝わった2万点におよぶ国宝・重要文化財を保管・
公開する博物館として、世界遺産の史跡として整備されたお隣の称名寺庭園とともに、
鎌倉文化の精華を今日に伝えています。
◎栄西茶樹招来説の誤り
茶道史という視点ではなく、茶の生産と消費を、政治・経済・文化という
総合的な視点から、茶の通史という軸線にすえて捉えてみたい。
茶は奈良時代に遣唐使によって仏教と共に伝えられ、平安時代に漢詩文の
世界や密教の儀礼として朝廷で用いられた。茶樹は大内裏の茶園で育成されたが、
典薬寮か主殿寮が管理、蔵人所や穀倉院が茶園を管理し、生産に携わった。
また大内裏以外にも平安初期の嵯峨天皇が畿内近国に植樹させるなど、
茶樹の育成と茶の生産は朝廷の官僚組織のもとに制度化されていった。
嵯峨天皇のころは特に漢文学が栄え、茶は中国文化への憧れと結びついて
盛んに飲用されるようになった。それ以降も詩歌管弦の雅の場で酒や茶が
楽しまれた。一方寺院でも修法に組み込まれた茶の需要を満たすために
寺院の敷地や寺領に茶園が営まれた。
茶樹は日本でも自生できる帰化植物でありながら、あまり記録に
残らなかったのは、茶の生産が通常業務化していたからに他ならない。
栄西は茶の新しい喫み方を移入したのであって、茶を招来したというのは
俗説に過ぎず、それによって古代と中世との間に断絶を作るという
誤った歴史が生じることになった。
◎鎌倉と茶
源家三代の時代、平教盛の子の小川法印忠快は実朝の信任を得て
密教の修法を盛んに行った。天台密教葉上派の僧侶として活躍した栄西は
中国で学んできた禅を広めたが、茶は本寺の延暦寺から供給を受けている。
北条政子の帰依を受けて寿福寺開山長老となるが、これは私人としての
活躍と見るべきで、寿福寺は公的な鎌倉将軍家の祈願所ではなかった。
武家の鎮護・将軍家の安泰を祈願する幕府の公的な寺社は鶴岡八幡宮・
勝長寿院・永福寺・大慈寺以下いくつかに限られていた。それぞれ
神と仏または天台と真言が弘通しており、各寺社は特定の宗旨に固執しなかった。
四代将軍頼経の時代になると、父の摂政・関白九条道家が多くの殿上人・
諸大夫・僧侶・陰陽師を鎌倉に派遣したことにより、茶の消費はさらに進んだ。
源家将軍時代よりも、将軍御所を内裏に準じて清浄に保つよう最大の注意を
払うようになり、災厄を払うための修法がより重んじられ、それに応じて
茶の消費が激増する。この時期には興福寺の勢力圏にある大和茶も鎌倉に
供給された。
儀式や修法で用いられるこれらの茶は煎じ茶であり、抹茶は小人数の席で
使用する私的空間の茶であった。また茶の供え方について、『秘抄口決』
第三十六「北斗法」には、最上は茶の粉を仏供 (ぶっく) のように盛り上げ、中品茶は
茶葉よくこれを煎じ、下品茶は葉を盛るとある。また『秘抄問答』巻第十四末には、
仏に備える茶は白い器を用いるのを例にするとあり、鎌倉も京の作法に倣って
白土器 (しろかわらけ) を用いており、多くの出土品がある。
◎禅宗と茶
将軍御所は聖なる空間として清浄が保たれていたが、本来武家はもっとも
忌み嫌われた血の穢れに関わった存在である。穢れは神が嫌うものであるから、
それを払おうとする武家の願望に応じたのは、主として天台・真言密教の修法
であった。武家の間に人気があった禅宗は、将軍家を神聖に保とうとする
密教の修法と異なった対処の仕方をした。禅宗は戦闘を職業とする
武家の本性や個人の抱える様々な問題に向き合い、禅の作法により行動の
仕方を示唆した。相手の心に入りそれを受け止めたのが禅であった。
茶は禅の作法の中でも多用されている。
◎鎌倉での茶の流行
弘長二年(1262)西大寺の長老叡尊が鎌倉に下向して養生の薬として茶を広めた。
西大寺系律宗は茶の栽培・生産に携わる職人集団を擁しており、鎌倉では極楽寺・
称名寺以下の律院が茶の栽培を始めるに及んで、十四世紀の初めごろから生産量が
拡大した。それに伴って茶は儀礼の席から日常的な贈答品へと展開していく。
律院では職人にも酒茶をふるまったことから茶は庶民の間にも広まっていった。
鎌倉時代末期には、栂野茶(高山寺で開発された茶)かそれ以外の茶かを当てる闘茶が
始まっている。
鎌倉・南北朝における関東地方の茶の普及に関しては称名寺に多くの記録がある。
称名寺・東禅寺・永興寺・戒光寺の四律院や、高幡不動・中山法華経寺など
それぞれ茶園を持ち茶の生産に当たっていたことが分かる。
◆ 鎌倉市民同窓会主催 推進協議会共催 緊急フォーラム報告 ◆
「鎌倉の世界遺産を大災害からいかに守るか」
平成 24年6月16日、高徳院客殿で、鎌倉の世界遺産を始めとする文化財を、
大震災や津波などの災害からどのように守るかについて、緊急フォーラムが
開かれました。
冒頭に中島章夫市民同窓会代表と、推進協議会会長の松尾崇市長から
挨拶がありました。
続いて柴山知也早大教授と木下直之東大教授の基調講演があり、その後、
お二人に佐藤孝夫慶応大学教授・高徳院住職と、鎌倉まちづくりコンサル
タントの福澤健次さんが加わって、パネルトークが開かれました。
その間に、鎌倉市作成の防災資料の説明と、「武家の古都・鎌倉」の
構成資産のビデオ上映も行われました。以下、講演とパネルトークの
発言要旨です。
基調講演 「鎌倉を襲う津波の予測と減災方法」
柴山知也早稲田大学理工学術院教授
沿岸防災の研究をしているが、災害は住む場所で異なる。
地域ごとに減災シナリオを考える。鎌倉にどのくらいの津波が来るかは、
数値モデルから計算が可能である。最近は世界的に津波・高潮災害が
頻発しているが、バングラデシュでは日本などがサイクロンシェルターを
提供、被害を少なくした。
東北の地震津波に関し、宮城沖地震が起ることは分かっていたが、
想定外の規模で起きた。我々はいま想定外がないようにと考えている。
研究者らは調査を分担し合っている。東北の場合、岩手県では百年に
一回のもので、宮城県では千年に一回のものだった。対応や復興の仕方は
異なってくる。
鎌倉・神奈川の津波対策は、全国でも取り組みが早かった。津波被害規模の
想定は数値予測と堆積物の記録からされ、地震・津波の研究者と防災担当者が
協力し合って作る。千年に一回の事態には避難の事を考える。室町時代の明応
地震の例も考えに入れ避難場所や堅固な4階建て建物をABCランクで考えた。
鎌倉の不利な点は、相模湾の津波伝播の行き止まりの所なので波が高くなる
ことであり、宿命的なものと言える。
基調講演 「数々の災いを乗り越えてきた鎌倉」
木下直之東京大学教授(文化資源学)
鎌倉の歴史を振り返り、文化遺産がどのように守られてきたかを考えよう。
災いには、天災と人災がある。明治初年の神仏分離で鶴岡八幡宮の仏教系
建造物は瞬く間に失われた。
次の人災は戦後の住宅地開発だった。八幡宮裏の御谷開発への反対運動から
鎌倉風致保存会が生まれ、古都保存法の制定に至った。それが鎌倉を今の姿に
落ち着かせた。
天災の方では、関東大震災で諸社寺が被害を受け、その後鎌倉同人会が
呼びかけ、鎌倉国宝館が生まれた。指定文化財等は復旧されても、
その他には手が及ばない事情に対応した。反面、仏像や仏画が本来の
場所から切り離されて展示物になってしまったというデメリットもある。
それに比べると、露座だがずっと同じ場所に在り続ける鎌倉大仏の場所で、
今日のこの催しが開かれることには大きな意義がある。文化財である前に
信仰の対象だからだ。万一鎌倉が津波に襲われても、大仏が復興の拠り所と
なるのではないか。
パネルトークに向けて、次の問いかけをしたい。
(1) 文化遺産という言葉を鎌倉でどう考えるか。
(2) 人命の他に文化財をどう守るか。
(3) 災害後の復旧に文化財がどう生かされるか。
以上 3つである。
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パネルトーク
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福澤さんは、自然・人工域図や等高線図、ワークショップの報告などから
鎌倉の人文地理的特徴を説明し文化遺産周辺の地域防災力の育成強化の大事さ、
社寺と協力し合い鎌倉を作っていく必要などを説いた。
学者でもある佐藤住職は緻密な解説で、この二十数年来の文献・考古・地盤地質・
大気等さまざまな調査の様子を紹介。科学的な鎌倉大仏の保全対策や今後必要な
措置に関し報告し、また文化財の存在意義や歴史教育の意味を説いた。
柴山教授は、「今日の話で私たちは、京都奈良に比べ海に面する鎌倉には、
また難しい文化財保護の問題があると解った。今後研究していきたい。
鎌倉市民の防災意識は高い」と語った。
木下教授は、「コミュニティを形成するのに文化的景観は大事。世界遺産登録で
一時的に観光客は増えるだろうが、その後文化を大事にする町へと向かうことを
期待する」とまとめられた。
めざせ世界遺産登録
あなたも参加団体で活動しませんか?
鎌倉から次世代を担う人づくり
横浜国立大学教育人間科学部附属鎌倉中学校
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鎌倉市役所で世界遺産を学ぶ。
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鎌倉市民に「附属」の名で親しまれている同校は、昭和22年の開校以来、
鎌倉に支えられて、より良い教育活動の推進に努めています。
そのひとつとして、「総合的な学習の時間」で将来の生き方を探究する
学習活動が行われています。 1年生は、人との出会いをテーマに、
興味を持ったことについて鎌倉を中心にインタビューを行い、
「人力車に迫る」「鎌倉の七口」「北条首やぐらと貝吹地蔵の伝説」等々、
地域の皆様の協力で実りある学習ができています。 2年生も、鎌倉を中心に
3日間の職場体験を行い、3年生は、修学旅行の京都で専門的な立場の方を
訪問します。また、3年生の国語の学習では、世界遺産登録に関する作文を
書き、中学生作文コンクールに参加して好成績を収めています。
生徒は「伝統を、形式だけでなく、社会をよくしたいという共通の目的を
もって、それぞれの良さを活かした角度で守っていきたい」と話し合っています。
青木副校長は「人や地域と繋がり、伝統を大切にしながらも、未来を自分で
創ろうとする生徒を育てたい」と語って下さいました。
学校見学等のお問い合わせは 電話 0467-22-2033 まで。
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世界遺産のまちへ 鎌倉づくり
鎌倉市民同窓会
20数年前から市民それぞれの多彩な経験を生かそうと、文化・環境・福祉を
テーマに活動を展開してきました。江ノ電の魅力を見直そうと、納涼電車を
復活させました。ビールと音楽を楽しみながら公共交通の価値を再認識して、
2年連続して開催し、好評でした。
岩瀬青少年広場で、伝統の上総掘りによる湧水井戸の掘削を行いました。
9ヵ月の苦闘の末、深度180mで水脈に到達。その清澄な湧水は地域に
親しまれて、暮らしに役立ち、市の防災公園の核となっています。
鎌倉の福祉団体を結集し、市やJRとともに鎌倉駅のバリアフリー化を進め、
エスカレーターやエレベーター3基の設置が実現しました。
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世界遺産のまち鎌倉を守るシンポジウム
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大津波などの災害から市民の生活と世界遺産のまち鎌倉の文化遺産を守り、
まちづくりを進めるかという緊急フォーラムを昨年 9月と今年6月に開催し、
市民が専門家とともに議論を重ね、具体的な成果を得ました。
中島章夫代表は、「単に市民活動に終わることなく、行政や事業者に
影響を与え、世界遺産のまちへ鎌倉づくりをめざしています」と語っていました。
古都鎌倉の世界遺産登録って なに?
「武家の古都・鎌倉」を構成する資産は、武家政権所在地の整備に
大きな影響を与えた山稜部と、その山裾や谷間などに造られた神社・
寺院などの「重要な要素」から成り立っています。
「重要な要素」とは、
現存する神社や寺院と寺院跡・武家館跡・切通・港跡等の考古学的
遺跡のことで、21ヵ所です。鶴岡八幡宮や大仏切通といった
個々の社寺や史跡だけではなく、山稜部を含む範囲全体がひとつの
資産であることが、「武家の古都・鎌倉」の大きな特徴です。
これまで、日本の世界文化遺産は文化財保護法の国宝・国重文・国史跡でした。
鎌倉の山稜部一帯は、1964年の「御谷騒動」に端を発した保存運動を
きっかけに枢要な価値が認められて、1966年に制定された古都保存法により
保全されてきました。
このため日本で初めて、文化財保護法と共に、
古都保存法の歴史的風土特別保存地区が世界文化遺産に推薦されることになりました。
それらの周囲も歴史的風土保存区域なので、山は一体として保全されています。
このように鎌倉市民の知恵と努力によって、鎌倉は、文化財と周囲の緑を
ともに世界遺産として守ろうとしています。
第6回 世界遺産登録推進 ワークショップ
「世界遺産登録後の鎌倉を見据えて − その趣 (おもむき) と理 (ことわり) −」
市民が集まって、テーブルに分かれ、意見を出し合い提言するワークショップ。
今回は、A.山・海とまち、B.観光と住生活、C.文化都市をめざす、の3つの
テーマに分かれて話し合います。
市内外の皆様のご参加をお待ちしています。
●今回のアドバイザーは木下直之さん(東京大学教授・文化資源学)と
赤川学さん(東京大学准教授・社会学)です。
と き : 平成24年11月18日(日) 午後1時30分〜4時30分(午後1時15分開場)
ところ : 鎌倉市役所第4分庁舎2階 会議室
定 員 : 先着 50名(定員になり次第締切。結果は全員に通知します)
参加費 : 無料
申込方法 : 住所・氏名(ふりがな)・電話(FAX)番号と希望するテーマ
(A.B.C.のいずれかの第1希望と第2希望)を記載し、
はがき、FAXまたはEメールで、
下記の鎌倉世界遺産登録推進協議会事務局「11/18ワークショップ」係へ(11月9日必着)。
主催/鎌倉世界遺産登録推進協議会 共催/鎌倉の世界遺産登録をめざす市民の会
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Watch! the 世界遺産
9月22日(土・祝)〜10月2日(火)、鎌倉芸術館ギャラリーで、鎌倉世界遺産を
モチーフにした美術・写真作品が展示されました。今年の優秀作品は次の方々です。
美術部門
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写真部門
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「寿福寺のやぐら」 二見隆さん
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「どっしりと」 吉田一男さん
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「静の舞」 石井金次郎さん
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「静かなる時」 西郷義則さん
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来年はあなたも応募しませんか? 募集要項は来年 6月以降に配布の予定です。
EDITOR'S NOTE 編集後記
ユネスコの世界遺産委員会の諮問機関であるイコモスによる鎌倉の現地調査が
行われました。鎌倉の世界文化遺産候補地は、山稜部と一体となった十ヵ所の構成資産が、
社寺や史跡など21ヵ所の重要な要素を中心に成り立っていますが、政府から
ユネスコに提出された推薦書の内容は、主に資産の保存管理状況が問われました。
この報告書はイコモスの審査を経て、世界遺産センターに答申され、来年6月
にはユネスコの世界遺産委員会で登録が決定されます。
鎌倉の世界遺産登録も間近に迫ってきましたが、今必要なことは、遺産の保護・
保全を行政だけに任せず、市民がもっと自覚して協働していくことです。
市民と来訪者も含めて、キャッチフレーズ「みんなでつくる世界遺産のまち鎌
倉」としての誇りを広く持てるように、推進協議会の活動を世界に向けて発信し
ていきたいものです。
広報部会長 内海恒雄
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●鎌倉世界遺産登録インフォメーション&放送スケジュール●
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インターネット ◆鎌倉世界遺産登録推進協議会HP http://www.shonan-it.org/KWH-kyogikai/
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FMラジオ ◆鎌倉FM(82.8MHz) … 毎週金曜 19 : 10 〜 19 : 30 「鎌倉世界遺産への道」
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ケーブルテレビ ◆JCN 鎌倉 … 毎週木曜 17 : 10 〜(当日再放送あり) 7 Days デイリー「一問一答!鎌倉検定の道」
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〒248-8686 鎌倉市御成町18-10 (鎌倉市世界遺産登録推進担当)
Tel. 0467-61-3849 Fax. 0467-23-1085
E-mail : sekaiisan@city.kamakura.kanagawa.jp