トップページ > 武家の古都・鎌倉ニュース >鎌倉ニュース第27号 |
平成25年5月28日、文化審議会世界遺産特別委員会がイコモス勧告について基本方針を審議しました。
これを受けて、近藤文化庁長官は庁内で記者会見に臨み、日本政府としての立場を表明するとともに、記者団の質問に答えました。
鎌倉についての近藤長官の発言をお伝えします。
推薦取り下げについて
文化審議会の特別委員会で、4県市(神奈川県・横浜市・鎌倉市・逗子市)からの報告を受けて審議を行い、文化庁としての基本方針について了承を得ました。
鎌倉について最終的な登録をめざすうえで最善の方法は、1回取り下げをすることだとして了承を得て、(政府の最終判断となる)関係省庁連絡会議に提案することになりました。
イコモスの不記載勧告について
世界遺産委員会の歴史の中で、イコモス勧告で不記載のものが登録された事例は皆無に近い状況です。
一旦取り下げて、改めてイコモスの考え方などを踏まえて、どのようなコンセプトで、どのような資産を組み上げていったら、鎌倉の価値が十分に世界に伝わるかを考えていきたいと思います。
地元と世界の専門家とも十分に議論して出直ししたいと思います。
記載延期の勧告を受けた平泉がその決定を受けて、コンセプトや資産の再構築をして3年でイコモスから登録の勧告を得て、世界遺産委員会も認めた前例があります。 価値があると信じているものをどうやって、よりわかりやすく世界に説明できるかをゆっくり考えたうえで再構築していけば、可能性は十分にあるはずです。 新しいコンセプト
政治の拠点や生活を表す物がないというイコモスの指摘を踏まえて、どういう練り直しがいいのか、今のコンセプトの延長線上でいくのか等を考えなくてはなりません。
イコモスは私たちが文化遺産と考えている以上に物的な証拠を重視します。
現在の資産によって十分に主張できるような価値を見つけ、しかも世界に誇る顕著な価値があるのだということを証明できるような組み合わせが必要だと思います。
練り直しの期間
なるべく早くやっていきたいと思いますが、どういうことをめざすのかによっても、どれくらいかかるかという判断に影響があります。
現在、次の登録推薦に機の熟しているものから順番に出していくわけですから、最も熟したといえるのはどこかということになります。鎌倉はどうなのかということで、現時点ではちょっと見通せないところです。
鎌倉の体験からの教訓
世界遺産委員会の決定ではありませんが、イコモス勧告や評価が厳しくなってきている現実があり、さらに価値評価が限定的になってきています。
私たちが主張してきた価値がどこまで受け入れられているのかを考えると、イコモスは物による証明を厳しく見るようになっているといえます。
私たちにとって日本の歴史上の常識であっても、あるいは歴史的に明らかであっても、審査をするイコモスのパネルの専門家が納得できるような物や写真をしっかり確保することこそ登録への近道だと思います。 これから登録を図る遺産もこうした現実をしっかり踏まえていってほしいと思います。 鎌倉の価値についてのギャップ
「武家の古都」ということで、私たちとしては物証に注目しながら、鎌倉の価値を示そうとしてきました。
でもイコモスの方は、まちというよりも都である以上は当然権力の中心であり、生活の跡があるはずなのに、そういうものがないということで、あるいは不十分だということで勧告してきたわけです。
基本的な鎌倉の価値に対するアプローチというか考え方が、イコモスと私たちでは大きくずれており、それがイコモス勧告には非常にはっきり書かれています。 このような考え方のギャップを簡単に除くことはできません。 しかし様々な機会をとらえてその辺のずれの根拠を考えていくことは、今後、鎌倉の立て直しを図るうえでも非常に重要なポイントになると思います。
鎌倉市は市民の皆様とともに、鎌倉の貴重な歴史的遺産や景観を守り、確実に後世に伝える手段として、世界遺産登録活動に取り組んできました。
この取り組みを通して、世界遺産登録が鎌倉にとって長年の課題となっている交通渋滞、景観および文化財保護などの課題解決にも役立つことが判ってきました。
そして登録推進活動をきっかけに、より多くの市民の皆様に参加していただき、鎌倉の将来を考える協働の輪が広がるという大きな成果が生まれています。
鎌倉は昭和30年代に、歴史的景観を守るため、市民自身が立ち上がり古都保存法制定のきっかけを作ったまちです。 市民が鎌倉の歴史と文化を誇りとして、文化遺産と緑を守ってきた市民自治の伝統あるまちです。 鎌倉市は、その良き伝統の上に、世界遺産登録をめざしていきます。 また、市はこの勧告をバネにして、国・県の支援も得ながら、次のような3つの取り組みを進めていきます。
具体的成果がはっきり形になるのは、何年か先になるかもしれません。 しかし 「あの時、厳しい評価を受けたお陰で、こんないいまちになった。」 そう語れる日のために、行政としては、鎌倉の魅力と歴史的・文化的資産を再発見し、それを守り伝える中で鎌倉の持続的な発展をめざします。 そして鎌倉のまちの将来のために、今後なにをしていくべきかについて、改めて真摯に取り組んでまいります。 そのために、市民の皆様との協働の輪を広げ、 「住んでよく、訪れてよい、鎌倉のまちづくり」を共に考え取り組んでいきます。 今後ともよろしくお願い申し上げます。
県立歴史博物館・県立金沢文庫・鎌倉国宝館にて開催された 「世界遺産登録推進特別展」 の関連シンポジウムが、平成24年11月11日(日)にきらら鎌倉(鎌倉生涯学習センター)で開催され、五味文彦さん(放送大学教授・東京大学名誉教授)、清水眞澄さん(三井記念美術館館長・成城大学前学長)の基調講演と3館の館長を加えたシンポジウムが行われました。 前号に続いて、清水眞澄さんの講演要旨をお届けします。 清水 眞澄 さん 三井記念美術館館長・成城大学前学長 3館連携特別展は、 「武家の古都・鎌倉」 の文化遺産を支える文化財の展示です。 世界遺産登録の要件である完全性および真実性の観点から、鎌倉時代から継承されている文化財が県立歴史博物館、金沢文庫、鎌倉国宝館で展示されていることは大変重要です。 専門である彫刻史の観点から 「武家の古都・鎌倉」 の有形文化財について話します。 鎌倉大仏
国宝の指定は有形文化財の彫刻ですが、彫刻であるとともに記念碑的なものと考えられます。
『吾妻鏡』によれば、このブロンズ像が建立されたのは建長4年(1252年)ですが、その前に木造の大仏像があり、直接幕府がこれに関わった記録は少ないものの、幕府の庇護があって建立された可能性が高いと考えられています。
大仏の鋳造は8段に分けて造られています。この技術は大変高いもので、東大寺の大仏とは違う鋳造技法です。 中国文化を輸入した独特の形
鎌倉時代以降の文化、特に彫刻には中国大陸の影響を見ることができますが、それを日本あるいは鎌倉で、独自のものとして消化して、新たな彫刻や文化を作り上げていることが重要です。
円応寺の木造初江王坐像は、建長3年、大仏が鋳造され始めたその前の年に幸有という仏師が造ったと、胎内の銘文に記されています。 立膝をして斜に構えて坐り、裾を長く流していることや、衣文という襞が波打っているのも、中国の絵画にも見られるところです。 もうひとつは、半跏像です。横須賀の清雲寺瀧見観音像、建長寺の白衣観音像は膝を立てて片足を降ろしている宋代の像です。 この形の像が日本に入ると、右のほうに立膝をしていたのを横にし、左手ではなく右手を地につくようになり、より合理的な形に変わります。禅居院の観音菩薩像、東慶寺の水月観音像があげられます。 また、技術としては鎌倉にだけ遺されている 「土文」 があります。 源流は大陸ですが、こうした形や技術が日本に入ってくると、巧みに利用して鎌倉の新しい文化を作ったのでしょう。 禅宗の文化財
建長寺の仏殿や、瑞泉寺の庭園の在り方、伽藍の構成などは、直輸入された中国禅を基に、日本独自のものとして作り上げています。円覚寺の舎利殿、寿福寺の参道などは非常に禅宗らしい佇まいです。
こうした文化財のひとつに、禅宗の頂相(ちんぞう)があります。 鎌倉時代中期から後期にかけて高僧の像に倣って彫刻が造られ、記念碑的な意味や祖師像として礼拝の対象にされました。 建長寺の蘭渓道隆像と円覚寺の無学祖元像は13世紀後半の作で、日本の頂相彫刻ではもっとも古い像です。 また少し時代が下り、正統院の高峰顕日像と瑞泉寺の夢窓国師像等の頂相彫刻が伝えられています。 釈迦如来は一般的に、冠やネックレス等の装身具を着けていませんが、宝冠をつけている釈迦、 「華厳の釈迦」 が13世紀の中頃に、中国の禅宗とともに入ってきました。建長寺や円覚寺白雲庵の釈迦如来像等、14世紀になるとかなり造られています。 文化財を保管し継承する重要性
最後に今回、県立歴史博物館で展示されている出土品の数多いことに驚いています。
漆の椀や皿、石塔など、実際にはこの何倍、何十倍、もっと多くの出土品がありますので、これらを保管し次世代に伝えていく施設は重要です。
鎌倉にはこのように多くの文化財が残っていますので、早く世界遺産に認定されることが望ましいと考えています。
アドヴァイザーとして木下直之(東京大学大学院教授)と赤川学(東京大学大学院准教授)の両先生をお迎えし、平成24年11月18日の午後に、鎌倉市役所の第4分庁舎の2階会議室で第6回ワークショップが開催されました。
その内容の概略を報告します。
昨年持たれたワークショップの報告です。これまでのワークショップは 「世界遺産に鎌倉を」 「みんなで考える世界遺産おすすめルート」 「どう守る私たちの世界遺産」 「鎌倉の世界遺産登録へのまなざし」 「住んでよく、訪れてよい鎌倉のまちづくり」などのテーマで催されてきました。 それらを受けて今回の 「鎌倉の趣(おもむき)と理(ことわり)」 に関する話し合いが開かれました。 第1回のワークショップでは、鎌倉に関する感覚や意見がさまざまに語られ、その後に向けての蓄えが得られました。 第2回には、皆が抱く周囲の自然への思いの深さがはっきりしました。 第3回は、町の文化資産を守るための学びや近隣の大切さが指摘されました。 第4回の頃には行政側の目も丘陵部に注がれるようになり、市民の目線と合致してきました。 第5回は 「まちづくり」 がテーマとなって、交通・情報・まちの姿などに関し、話が活発に進みました。 ここでは、A 「山・海とまち」、B 「観光と住生活」、C 「文化都市をめざす」 の3テーマが設定され、5つのテーブルで話し合いが展開されました。 それぞれのテーブルで作られた意見シートの中には、次のような書き込みが見られました。 「街と緑の調和/ それぞれの家の手入れ」 「植物にとって良いまち/ 在来種を考える」 「緑を守るために団体を繋ぐ」 「観光資源多い/ 鎌倉らしさ」 「新しいものと古いものが混在」 「山・海はパッケージ/ 中世から変らない」 「何が本物か/海・山・積み重なってきた歴史」 「まち・世界遺産、住んで居続ける」 「思い切った提案が必要」 「観光の基本は歩いて」 「鎌倉へ若い人が増えている」 「観光会社へのアピール」 「昼は賑やか、夜は静か」 「車の入場制限」 「各地区でタウンミーティング」 「宿泊施設を増やす」 「鎌倉に住むプライド、余裕」 「歴史文化都市と経済都市が融合する鎌倉市、独自に考える必要 」 「武家の古都に限らず多重な文化価値・その魅力を認識する」 「先を考え、次世代に定着する仕掛けづくり、可能なのは 余裕がある人、若い人。 空き家に若い世代に入ってもらう」 「文学・民俗・・・分断され総合的になっていない」など。 このワークショップでは、これからの鎌倉の方向性がうかがえる考え方が出ることが期待されたといえます。 鎌倉での催しは、参加者の平均年齢が高くなってしまうので、テーブル進行役には若い陣容を揃え、アドヴァイザーも木下・赤川両先生という気鋭の方たちが登場しました。 アドヴァイザーの先生たちも加わった熱い話し合いは、これまで同様に時間不足気味に終わり、消化不良と感じた参加者もいたかもしれません。 ソフトな手法で歴史の町を生かして鎌倉のあり方のヒントになると感じられた意見の一つに 「各地区でタウンミーティング」 がありましたが、そういうところから、地区ごとのまちの姿が見えてくるであろうと感じられました。 赤川先生は、一連のワークショップが鎌倉に社会資本をもたらしただろうと話されていました。 A、Bの4テーブル、文化を論じたCテーブルの話し合いからは、数々の貴重な示唆が得られました。文化資源学の木下教授のコメントも新鮮でした。 すでに各テーブルの議論の様子が読める報告書も発行されているので、興味のある方は取り寄せてご覧ください。 平成24年度 春季講座 第3回要旨
『中世鎌倉における禅宗の輸入』
講師:村井 章介さん(東京大学大学院教授)
とき:平成24年6月23日(土) ところ: 鎌倉芸術館 ◎日本渡来当初の禅宗
鎌倉時代の日本と最も関係の深かった国は中国であったが、
その交流に最も重要な役割を果たしたのは禅僧であった。宗教にとどまらず建築や文学などさまざまな領域にまたがる文化をも日本にもたらした。
日本に最初に禅宗をもたらした栄西は帰国後、博多に 「扶桑最初禅窟 」として聖福寺を開き、その後1200年に鎌倉で最初の禅宗寺院寿福寺を開く。 栄西を鎌倉に招いたのは北条政子であり、鎌倉で仏教の伝道をさせた。 しかしその頃はまだ禅宗は宗派とは認識されておらず、栄西は密教の僧侶として招かれ、儀式や祈祷などを行っている。 禅の要素はあらゆる宗派の中にあり、その中心的な身体の使い方が座禅であった。 中国では禅宗は座禅を中心とする宗派として確立していたが、日本に入ってきた時点ではまだ宗派とは捉えられておらず、禅という考え方を持ち込んだに過ぎない。 ◎政治権力と結びついた禅宗
その後、1246年に中国の禅僧蘭溪道隆が来日し、宗派として確立された禅宗が持ち込まれた。
執権北条時頼は、来日していた蘭渓道隆に注目し鎌倉に呼び寄せ、1253年に日本における最初の本格的な禅宗寺院である建長寺を開かせた。
栄西も蘭溪道隆も、京都よりも先に鎌倉に来て活躍している。 鎌倉五山と京都五山では、鎌倉の方が成立が早い。 つまり禅宗に関する限り、まず鎌倉に定着し、その後に京都の天皇を中心とする支配層に受け入れられるようになった、という経緯が読み取れる。 新しい国家権力として登場した鎌倉幕府は、それまで日本になかった新しい禅宗という宗派をバックボーンにしようとした。 一方、禅宗の側としても、旧仏教が根付いている京都に入り込むことが難しいため、京都と並ぶ政治権力の中心地・鎌倉に注目することになったと言える。 ◎北条氏と渡来僧
北条時頼は自ら禅宗信仰に深く帰依し、渡来僧・兀庵普寧(ごったんふねい)の指導のもと、実際に悟りを開いたとされる。
その瞬間を記録した史料の中にある兀庵と時頼の問答には、儒教で用いられる語句が頻繁に使われていた。
この時代の中国の禅宗は、政治にあたる階級の必須の教養として存在しており、儒教的な要素が多分に含まれていた。 死後の世界における安楽を目的とすることが仏教の本質であるが、さらに為政者の要求に応える特徴を持っていたのが禅宗であり、北条氏はむしろその点に注目したと思われる。 時頼が悟りを開いたことは、鎌倉幕府と禅宗との関係がより緊密になったことを示し、以後、北条氏に呼ばれて鎌倉に来る渡来僧が相次ぐ。蘭渓道隆や兀庵普寧以外にも多数の禅僧が招かれており、13世紀の半ばからの約100年間に、史料に残っているだけで30人以上が数えられる。 また同じ時期、中国へ渡航した日本の禅僧たちの数も二百数十名に及んだ。相互に往来があったことが、この時期の大きな特徴である。 ◎鎌倉と中国をつなぐ禅宗世界
時頼の次の執権・時宗も禅宗を深く信仰した。
2人の僧侶を使者として中国に赴かせ、日本に招いた禅僧が無学祖元であった。
時頼の命日に作った 「普説」 という文章には、無学が日本に来ることになった経緯が書かれている。
そのなかに当時日本から中国へ渡った渡海僧も、中国から日本へ渡った渡来僧も多く存在していたことが書かれており、この時期すでに頻繁な往来があったことがわかる。
一方、中国へ渡った渡海僧のなかで一番詳しい記録を残しているのが、鎌倉出身の禅僧中巌円月(ちゅうがんえんげつ)である。 中巌自身が書いた履歴書である 「自歴譜」 は、当時の知識人であった僧侶がどのような経緯で修行を積み成長していったのかを逐一追える貴重な材料である。 そこからは、当時の鎌倉では渡来僧や渡海僧に教えを請うことが非常に容易であったことがうかがえる。 中世の鎌倉において、中国から禅宗がどのように受容され、その中で日本人の禅僧たちがどう成長し、中国への目を開かれていったのかを示す典型的な事例である。 めざせ世界遺産登録
あなたも参加団体で活動しませんか?
すばらしい鎌倉を再発信しよう!
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横浜金沢街歩きの会 2012
当会は、金沢区役所でご当地検定の初級〜中級〜上級を研修、検定試験をクリアした第1回修了生により2012年4月に発足した自主学習グループです。
区内はもちろん、区外からの視点で金沢区を視ることにより、金沢区の長所や改善点等を見つけ、より感性を磨くことをめざしています。 第1回目の街歩きは、 「金沢区ゆかりの街、武家の古都・鎌倉を歩く」 と題して鎌倉で世界遺産見学会を開催しました。
代表幹事の黒沢明さんから、「世界文化遺産候補地の多くは鎌倉市内で、その市民の方々が登録に賛成・反対という白・黒をつけるような報道が流されています。 でも皆さんは同様に鎌倉を愛する想いは一緒のはずです。 原点に立ち戻り鎌倉のより良いまちづくりを皆で考え、ひとつになる機会です。 そしてすばらしい鎌倉を再発信していきましょう。」 と、激励を頂きました。
安全・安心な世界遺産の街へ
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鎌倉ガーディアンズ
平成21年の鎌倉市花火大会の際、ボランティアによる警備の依頼を受けたことから、地域で防犯活動を行っていた市民が集まって結成しました。
現在メンバーは123名。
「自分達の愛する街を自分達の手で守る」という理念のもとに、 (1)公的な祭事やイベントの警備 (2)世界遺産登録候補地の 「見守り事業」 (3)死なない防災対策 に取り組んでいます。 出動実績は年間40回以上で、オバマ米大統領鎌倉訪問時の警備には県警と鎌倉警察から感謝状が贈られました。 咋年2月に法華堂跡の頼朝の墓が損傷される事件があり、市からの依頼で7月から毎週、法華堂跡・朝夷奈切通・仮粧坂の「見守り」を続けています。 周辺の整備状況等に変化があれば市に報告するとともに、来訪する人たちには候補地の歴史や由来を説明して理解を深めてもらうよう努めています。 代表の大津定博さんは 「当会は『おもてなしの心』 をモットーに、安心・安全な世界遺産の街・鎌倉を情報発信しています。 4月から防災対策の『突っ張り棒』取付作業のお手伝いも本格化します。 ぜひ皆様のお力をお貸しください」と話していました。 問合せは大津さんまで。電話 070-5463-4846 E-mail: no-crime@s5.dion.ne.jp 古都鎌倉の世界遺産登録って なに?
第26回 世界遺産登録への鎌倉の取り組み
平成四年にユネスコの世界文化遺産暫定リストへ登載されて以降、鎌倉の世界遺産登録に向けた取り組みは二十年以上にわたります。
この間、鎌倉市では、世界遺産登録の推進を市の総合計画に位置付け、山稜部の発掘調査などの学術的調査を進め、また、学識者による鎌倉市歴史遺産検討委員会を設置するなど、鎌倉の価値を検討する作業を進めました。 そして資産となる遺跡などの国指定史跡の指定、指定範囲の拡大、各史跡の保存管理計画の策定や整備などを進めてきました。 これにより、鎌倉市の国指定史跡の面積は約213ヘクタールとなり、鎌倉市の全面積の5.4%を占めるまでになりました。 これらは鎌倉が世界遺産登録をめざす過程で生み出された大きな成果といえます。 また構成資産のうち 「重要な要素」 とした社寺や遺跡の範囲は、文化財保護法に基づく 「国指定史跡」、その周囲に続く山稜部は 「古都保存法」 に基づく 「歴史的風土特別保存地区」 となっています。 いずれも開発行為などが厳密に規制されています。 News! the 世界遺産
第6回 世界遺産登録推進に向けての中学生作文コンクール
このコンクールは、鎌倉の世界遺産登録へ関心を深めてもらうため、鎌倉市青少年指導員連絡協議会と当推進協議会の主催で開催されており、 今回で6回を数えます。 これまでの応募総数は3千名近くにのぼり、中学生のみなさんが世界遺産登録をめざす鎌倉について理解を深め、鎌倉の文化を後世にしっかりと継承していく決意を示すものとなっています。 以下に今回の最優秀賞の作文を掲載します。
News! the 世界遺産
「武家の古都・鎌倉」 の構成資産の一つ、永福寺跡の復元は中核となる三堂の基壇復元工事を終えました。 構成資産では初めての試みです。 1月25日に行われた住民説明会には市民310人が参加し、遺跡保存に対する関心の強さを示しました。 鎌倉市教育委員会文化財課遺跡調査研究員福田誠さんに案内していただき、史跡の現状について伺いました。 史跡の一番の特色である二階堂・阿弥陀堂・薬師堂三堂の整備を進めて、基壇部分の復元がほぼ終わりました。 通常、基壇は石で作られますが、永福寺では木で作られていました。 全国的に一・二例しかなく珍しいことです。頼朝が作った永福寺の当初の形が大事であるとして、あえて木を使って基壇の復元をすることにしました。
1983年の発掘調査段階で判っていたのですが、基壇部で掘立柱が発見されました。 地下には800年永福寺跡前の木材がそのまま残っていました。 調査で判明していた当時の地面および礎石は全部地下に埋めて保存しています。 遺跡の上に土を60cm積んで新しく地面を作り、基壇を復元展示しました。 当時のものを守るというのが大原則です。 全体の事業計画として2013年度から庭園の復元に取り組みます。 その一環として池を整備するために西ヶ谷から流れてくる水を水源にしようと考えています。 裏山のハイキングコースもリニューアルし、歴史公園としてオープンする予定です。
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