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平成25年7月10日、近藤誠一前文化庁長官が、鎌倉
生涯学習センターホールで 「これからの鎌倉」 をテーマに、
講演と市民とのディスカッションを行いました。
近藤前長官は、ユネスコ世界遺産委員会で、三保松原を含めた完全な形での富士山の世界遺産登録を成功させたあと、7月8日に退任された直後でしたが、「 (4月30日に) 鎌倉の 『不記載』 勧告を聞いたとき、必ず鎌倉に行って、皆さんとお話しようと思った」 「周りを囲む木々、遠くにかすむ海、何か久しぶりに鎌倉の雰囲気というか匂いを感じた」 など思いのたけを話されました。以下、講演要旨です。
◇鎌倉「不記載」勧告の理由
イコモス勧告は「不記載」だったが、鎌倉の武家政権の成立の地という歴史的価値は大きい。“The very great historic value” と、繰り返しイコモスは述べている。しかし、それを目に見える形で体現しているものは不十分というのが、勧告の「登録に値しない」と判断する決定的な要素だと思う。ヨーロッパ的考え方で、中世の都市には、城郭があり、政権と経済の拠点があり、貿易の施設があり、当時の人々が住んでいたまちなみがある、と、彼らは考える。鎌倉の場合、源頼朝がどこに住んでいたか、執務をしていたか、そこがまだ考古学的・歴史学的に証明されていない、見つかっていない、そこが恐らく決定的な要因ではないかと思う。
◇ヨーロッパと日本の価値基準の溝を埋める
ここ数年、私が石見銀山以来、日本の推薦登録に携わってきた経験からみると、日本人の価値観と、世界遺産条約のもとに明確に定められた基準の間にずれというか溝がある。具体的に一番重要な点をいえば、登録基準の方は西洋的な価値観で、推薦している対象には価値を体現する物が現存し、常に目で見えて手で触れる、物質的な物であり、従って科学でそれを証明できるということに大変重きを置いている。これに対して日本では、必ずしも物がなくても、充分なストーリーがあり、信ずるに足る考証や記録があれば、その価値はあるということをずっと信じてきたし、将来もそう考える。
今回、富士山の登録にあたって、三保松原は富士山の一部ではないと除外を勧告されたが、世界遺産委員会では、その目に見えないつながり、精神的価値が認められた。これは日本的価値を世界に認めさせていくための小さな1歩だと思う。このことは精神的な価値、 意識といった日本的な価値観に、世界が目を開いていく流れを作って、世界が物質主義ではなく、精神主義にバランスを保っていく、そのような地球になっていくうえで、日本の果たすべき役割であり義務であると考えている。従って、短期的には相手の土俵に乗る、しかし常にチャンスを捉えて日本の価値観を主張し続けていく、理解する人、仲間を増やしていくことが大切だ。 ◇鎌倉の再挑戦について
登録にあたってはあくまで書類で審査をする。そのために論理性と科学性が必要となれば、さらなる充分な調査と発掘をしなくてはならないことは明らかだ。それを進めていくうえで大事なことは、地元の方々の理解と熱意だ。半年や1年ではない、長期間かかるかもしれないこの作業に情熱を傾けて前に進んでいくためには、相当なエネルギーと夢と情熱とが必要だ。それをしっかりと確立し、自分のまちに誇りを持ち、もっと科学的に証明する材料をみつけようという意欲が積み重なって初めて、発掘調査も進むと思う。
それにより、鎌倉の持つ価値がより明らかになり、市民の皆さんや子供たちにより一層、より良く再認識され、そして世界にもそれが証明できるようになる。そうなることは、鎌倉の将来にとっていいのだと、自分たちの子や孫にとって必要だから、我々はそうするのだという、思いきった覚悟と情熱が必要だ。世界遺産登録の道というのは、マラソンに近い。マラソンには、持続力、目標に向かってあきらめずに進む情熱がなくてはならない。それらをしっかりと把握しつつ、前に進んでいくというのが、世界遺産に必要な要素だろうと思う。
「武家の古都・鎌倉」 のユネスコへの推薦書作成委員であり、筑波大学大学院世界文化遺産学専攻教授(元文化庁文化財調査官)の稲葉信子さんに、イコモス勧告直後の 5月2日に緊急インタビューを行い、イコモス勧告について伺いました。要旨をお伝えします。 鎌倉のイコモス勧告「不記載」について 日本のように丁寧に時間をかけて推薦書を作成し、「不記載」という結果に対して多分敏感に反応するであろう国に対して、割とあっさり結論が出されたと感じています。毎年、イコモスから「不記載」と勧告を受けるものはたくさんあります。しかし、そうした努力を行ってきた日本に対して「不記載」がどういうインパクトを与えるかということをもう少し考えれば、事前の質疑応答の可能性など、いろいろ方法はあったのではないかと思います。 イコモス審査の内実 勧告のいきさつ 鎌倉に金閣寺、銀閣寺、清水寺のような寺や鎌倉五山が完璧に残っていれば、それはそれで意味はあったのでしょうが、建長寺も鶴岡八幡宮も基本的には当時のものがあまり残っていません。また、来た方々に点として存在する寺や神社を見せてもやはり全貌はわからないというのが、国際専門家会議等で来られた専門家の方々の印象でした。 山稜部の導入 推薦書では、そうやって点でバラバラになっているものをつなぐため何とか面として、しっかりした物証があるということを山で表現しようとしましたが、イコモス勧告では山の中にある点も寺と神社でしかないと言われてしまいました。鎌倉という町に世界遺産に足る歴史的価値があるとするなら、それを私たちは山というバスケットで表現しようとしたわけで、その努力は買って欲しかったと思います。 市民の役割 また、今後の世界遺産登録の動きと並行して鎌倉のまちづくりを考える上で、新たな開発をどう規制していくのかということは考えなくてはなりません。より重要なのはまちづくりの方で、登録のための戦略とは別のものとみなすべきです。 世界の動向
平成25年4月20日(土)、鎌倉生涯学習センター(きらら鎌倉ホール)で、高橋慎一朗さん(東京大学史料編纂所准教授)の講演が行われました。これに先立って、「第 6 回中学生作文コンクール」 最優秀賞受賞者による 『未来に残したい鎌倉』 の朗読と県立鎌倉高校生徒による 『かまくら学』 の研究発表がありました。 以下、高橋慎一朗さんの講演要旨です。 鎌倉の遺産としての価値
鎌倉の人を惹き付ける力はどこにあるのか。古い歴史を持つ寺社、山や海・谷戸などの自然、街が一体になり、静かな落ち着いた鎌倉の雰囲気を創りだしている。緑の魅力が大きな力を持っている。街の佇まいがいい。中心部は賑やかで楽しい雰囲気がある。海の幸も豊富だ。そして谷戸、谷の奥に開いている寺社は静寂な雰囲気に包まれる。これがひとつにまとまっている。小さな中に詰まっているのが鎌倉の魅力である。三方を山に囲まれ、一方が海という鎌倉の地形を巧みに利用し、守り続けている。鎌倉時代からの建物等は少ないが、基本的な街の構造は鎌倉時代から変わっていない。それが鎌倉全体を世界遺産として登録しようという意味だ。
鎌倉の価値は、1180年代から1190年代にかけて、鎌倉幕府が成立したことにある。その後、室町幕府、江戸幕府と700年間、幕府が続いた。軍人の政権がずっと続いたというのは世界的に見て非常に珍しい。 関東の武士は自然の地形を巧みに活かして住みよく変えるのが得意だ。自然を大切にするという思想も残っている。鎌倉武士は、戦争を仕事にしながら、魂の救済を願い、より自分の身近なところに寺社を作ろうとしたから、この狭い場所にたくさんの寺院神社を作っている。そのような武士の街づくりの結果として現在の佇まいが残っている。 都市のレイアウト/ 鎌倉の動と静
自然の地形を使って動の部分と静の部分を巧みに分けている。山に囲まれた中心部分、半円形の部分が平地で、ほぼ中心に若宮大路が位置している。その両側に商業活動の場所や、将軍の住む御所、武家屋敷を配置していた。谷戸の奥の山際には寺院や神社、武家の別荘があった。若宮大路は現在でも鎌倉の中心になっていて、都市機能のなかで重要だ。中央に段葛があり車は通れない、現在でもちょっと不思議な静の空間を保っている。段葛は鎌倉の構造上、背骨の部分にあたる。静の空間が街の真ん中にあるというのは、中世都市の構造が現在に伝わっている証拠だ。
町は動、武家屋敷と寺社は静、鎌倉はこの大きな2つの空間から成っていた。町は町屋と呼ばれる小さな建物が並び、多くは道沿いに店を開いている。鎌倉時代の町としては、『吾妻鏡』に「大町、小町、米町、穀町、横町、魚町」があり、他の古文書には「甘縄の魚町」がある。寺社や武家屋敷では精神の啓蒙が求められるから、より静かな方に向かって展開していく。山際は最も静な場所であり、やぐらの中に五輪塔が置かれた墓などもあった。 鎌倉時代の音の世界、中世鎌倉の音
現在よりは遥かに静かな世界だから、音は強烈な印象を人々に与えていた。動の世界で一番印象的なのは、魚屋や米屋など商人の売り声、金の取りたての声も聞かれる。夜はあちこちで宴会をしていて、芸能の音も聞こえただろう。静の世界はお寺や武家屋敷だが、無音ではない。鎌倉時代には200くらいの寺院があったので、あちこちで鐘が鳴っていた。禅宗寺院では中国からきた僧や留学帰りの僧も多く、中国語で会話している。さらには山と一体化した町の雰囲気がある。実朝は郭公の声が聞きたいと永福寺まで出かける。郭公の声が聞こえる町として、鎌倉は作られた。音の世界を含めて、鎌倉の価値はある。
中世から続く鎌倉の佇まいを後世に伝えるために
鎌倉の佇まい、魅力的な空間を未来に伝えていきたい。文化遺産としての鎌倉を保存していくということだろうと思う。世界遺産は一つの価値基準に過ぎない。世界遺産にならなくても、鎌倉の価値がなくなってしまうわけではない。鎌倉の魅力を遺したいというのが、鎌倉を愛する人の共通の願いだ。住みたい街、静寂が保たれて環境のいい街でありつつ、訪れたい街の両方をぜひ追及してほしい。暮らす上で不便をつくるということについては、なぜそこまでしなくてはいけないのかという声もある。落ち着いた街の佇まいが、非常に価値があるということを知ってほしい。
1959年から続く鎌倉の春を告げるお祭り「第55回鎌倉まつり−世界遺産登録をめざして」が 4月14日(日)から 21日(日)にかけて開催されました。
初日を飾るパレードは強風にもかかわらず、音楽隊やお神輿を見ようと多くの人が葉桜になった若宮大路に集まりました。演奏やお囃子、元気に踊る子どもたちがパレードを盛り上げる中、『みんなでつくる世界遺産のまち鎌倉』ののぼりを掲げ当推進協議会も参加。 外国の大使館の方々や、鎌倉学を学ぶ鎌倉高校の生徒さんたちが応援に駆け付け、一緒に沿道の声援に応えてくれました。 鎌倉駅東口と鎌倉生涯学習センター(きらら鎌倉)の前では、当推進協議会メンバーの手で「武家の古都・鎌倉」MAPとバッジの配布が行われ、訪れた多くの観光客の方々に大変ご好評いただきました。 寺社特別拝観めぐり
寿福寺では、公開されていない江戸時代の鎌倉五山では唯一の仏殿で、篭釈迦で知られる乾漆で珍しい本尊の釈迦如来像や両脇の文殊・普賢菩薩像、鎌倉では最古の達磨大師像、開山の明庵栄西像、鶴岡八幡宮の巨大な仁王像などを特別拝観しました。浄光明寺では、公開されていない嘉元四年(1306)没の多宝寺長老覚賢和尚の大きくて立派な五輪塔の墓を特別拝観しました。 円覚寺では、公開されていない正続院で、禅宗様建築では日本を代表する国宝の舎利殿に仏牙舎利(釈迦の歯)を納めた厨子や聖観音菩薩像・地蔵菩薩像、これも公開されない白雲庵の珍しい宝冠をつけた釈迦如来像や開山の東明慧日像と、帰源院の開山仏恵禅師像や夏目漱石の手紙などを特別拝観しました。 覚園寺では、立ち入りできない千躰地蔵堂に上がらせていただき、病気になったら地蔵菩薩像を一躰お借りして、治ったら地蔵菩薩像を一躰彫って納めるという庶民信仰をしのばせる659躰もの小地蔵菩薩像を特別拝観しました。
瑞泉寺では、立ち入りできない仏殿に入らせていただき、本尊の釈迦如来像、徳川光圀寄進の千手観音菩薩像や夢窓国師像、五山僧侶等の漢詩の詩板などを特別拝観しました。 建長寺では、公開されていない山門の上で釈迦如来像・十六羅漢像・五百羅漢像等を、また、普段立ち入りできない禅居院の本堂で聖観音菩薩像・大鑑禅師像・摩利支天像等を特別拝観しました。 ◎今回の日程は次の通り。特別拝観は太字で示しています。
平成24年度 春季講座 第4回要旨
『鎌倉の禅宗』
講師:三浦 勝男さん(前鎌倉国宝館館長)
とき:平成24年7月7日(土) ところ: 鎌倉芸術館 ◎鎌倉に禅宗が根付いた経緯
禅宗を考える上で、鎌倉の政治的、地理的位置は重要である。源頼朝は、京都で政治権力を握っていた公家の政治ではなく、武家を中心とした政治をするために、背後に天皇をいただき権力を発揮したいという考えで、関東を中心として奥州までの範囲内を治めることを主張し、鎌倉に幕府を立ち上げた。それは、関東武士たちの拠点が鎌倉であったこと、そして歴史的な源氏の拠点として鎌倉が大事な場所であったという2つの大きな要素があった。
鎌倉の禅宗寺院は、鎌倉市内の中央部には少ない。ほとんどが、いわゆる鎌倉の山を一つ越えた山ノ内地区である。北条氏が禅宗を鎌倉に持ち込む以前の実朝までの鎌倉の陣形は、永福寺等がしっかりと残っていたため、新しい教えである禅宗の寺院を建てる広い土地がなかった。そのため建長寺は、八幡宮寺裏手の側面を造成しながら建てられた。北条氏は金に糸目を付けず、中国から建長寺に蘭渓道隆を呼び寄せた。江戸時代に作られた「禅宗読本」の写本には、当時の様子が、「言葉は通ぜず、ことごとく手振り、足振り」と書かれている。このような形で、日本で最初の禅宗寺として、建長寺が建てられた。 また、建長寺と円覚寺は、五山の第一、第二としての誇りもあり、現在とは異なり犬猿の仲であったということまで江戸時代の古文書には出ており、良い意味で競っていた様子がうかがえる。同じ臨済宗であるが、その流派、考え方、やり方が少しでも異なると、相容れなかったことが読み取れる。 ◎開基の力
寺院において、第一世の老師である開山や、資金面で全面的に負担する開基が誰であるかは重要である。寺を建てると決めた開基は、建立費用だけでなく、そこに勤める禅僧の食いぶちまで全て面倒を見なければならない。建長寺で1年間にどれだけの米を消費したかを調べ、禅僧一人一日で1合半食べていることから計算すると、建長寺の禅僧は最も多い時期には100人を超えていたことがわかる。それらを全て支援する財力を持つ人物は、政権を握るくらいの立場の者以外には考えられない。
鎌倉時代は、頼朝から始まる源氏三代と北条氏の政権の間に、少なくとも146ケ寺が建立されている。北鎌倉を含むこの狭いエリアにこれだけの寺院がどのように運営されてきたのかは、少しずつ解明されてきている。禅僧達は、畑の耕作をして、自分たちの最低限の食物を得ていたが、本当の意味で寺院を支えていたのは、いわゆる檀家であったということが古文書等の記録に残っている。 ◎北条政子の功績
頼朝の死後、二代目将軍頼家になると、その母北条政子が実質的に権力を持つようになる。そのような中、のちに鎌倉五山第三位となる寿福寺を女性である政子が開基となり創建したことは、鎌倉の歴史や、仏教史の上で、大きな意味合いを持つ。
鎌倉時代当時の女性の社会的地位を考えると、北条一族の権威と血脈、そしてそれを背負って政治の世界でそれなりの実力を発揮したことが揃って初めて実現したことであろう。政子は、実質的な将軍職を務める傍ら、幕府ではできないことを寿福寺でおこなっていた。最近の女性史研究の中でも、鎌倉時代の特に中期以降の女性の活躍は注目されている。 ◎鎌倉にとっての禅宗
鎌倉における禅宗の発展を見て行くには、寿福寺の歴史が重要になるが、残っている記録が少ない。江戸時代に寿福寺の僧侶によって書かれた日記帳が残されているが、今後これを読み解くことによって解明されることが出てくることを望まれる。
この鎌倉五山等々を発展させた、特に、北鎌倉を中心とする禅宗寺院の基礎を、しっかりと、鎌倉を拠点に関東に発展させたという意味では、北条氏の功績は偉大であった。 今後は、鎌倉文化を考える大きな要素として、宗派を超えて北鎌倉地域を中心とした禅文化を考えていけば、もう一つの新しい鎌倉地方文化を極めることができるのではないかと考えている。
平成25年6月9日、イコモスの 「不記載」 勧告の意味と今後の展望を考える市民集会を鎌倉市役所分庁舎講堂で開催しました。冒頭に、「鎌倉の世界遺産登録をめざす市民の会」 の兵藤芳朗代表が、近藤誠一文化庁長官からのメッセージを披露しました。
続いて第1部として、元NHK解説委員で歴史遺産・景観・まちづくり等に造詣の深い毛利和雄さん(瀬戸内港町文化研究所代表)の基調講演を伺いました。 第2部では、毛利さんと鎌倉文化研究会代表の高木規矩郎さん、鎌倉市学芸員の玉林美男さんをパネリストに迎え、古都フォーラム鎌倉代表の卯月文さんがコーディネーターとなって、座談会と会場から寄せられた質問に応えるフリートーキングが行われました。 ここでは、毛利さんの講演要旨を掲載します。 ◎毛利和雄さん講演要旨
「武家の古都・鎌倉」とル・コルビュジェ そこで2011年、「ル・コルビュジエの建築作品」として再推薦をしたところ、イコモス勧告は「不記載」だった。それでも取り下げずにパリでの世界遺産委員会に臨んだところ、「記載延期」になったため、再推薦できないという状況は免れた。フランス文化省とイコモスの関係は複雑だが、今後に向けて水面下で意見交換が始まっていると仄聞する。 鎌倉は「不記載」勧告を受け、今回は取り下げの道を選んだ。世界遺産委員会でも「不記載」の決議がされると再推薦できなくなるからだ。イコモスの審査過程は公開されないため、事前の対策を建てづらいので、イコモス勧告が決定するまでの過程に推薦国も参加できるようにすべきだとの意見も出ている。 イコモス勧告の検討 日本側は、武家文化を伝える寺院が鎌倉を取り巻く緑の山の谷戸にあり、そうしたものに価値があるとしている。それに対し、イコモスの勧告では、「武家の古都」としながらも「権力の証拠」に欠けていると指摘している。「権力の証拠」とは、大倉幕府や北条氏得宗屋敷など政治の拠点のことを指していると理解できる。中世都市鎌倉では、大倉御所などの遺跡には現代の都市が重なっている。したがって、重要な遺跡を鎌倉の中でどのように位置づけていくのかが、今後の世界遺産を考えていく上で重要だ。そのことは、総合的に鎌倉のまちを将来に向けてどうしていくのかという課題を検討することでもある。 「アジア遺産」で、近隣諸国との歴史を共同研究する 私は、日本遺産を創設し、国内だけで終わらせるのではなく、日本がユネスコに働きかけて新たな事業「アジア遺産」を作ることを、提唱したいと思う。世界遺産をめざす時、似たような資産の比較研究が必要とされており、近隣諸国と日本の歴史資産の比較研究は重要になってくる。東アジア世界の中で、日本の遺産を関連諸国の遺産と共同で研究していくことを踏まえて、歴史遺産の保護制度を作ることは近隣諸国との未来志向の関係の構築にも繋がるのではないだろうか。 めざせ世界遺産登録
あなたも参加団体で活動しませんか?
鎌倉に伝承する文化を保存
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鎌倉市郷土芸能保存協会
鎌倉では、市内の各地域に様々な郷土芸能が伝承されています。鎌倉市郷土芸能保存協会は、昭和45年に発足し、現在22の団体が加盟し、郷土芸能の伝承に取り組んでいます。
郷土芸能は、人々の生活の中で生まれ、伝えられ、地域で息づいています。 当協会は、この鎌倉で「生きた文化」とも言える郷土芸能を永く後世に伝えることを責務と考え、様々な活動をしています。毎年「鎌倉郷土芸能大会」を開催し、各地域の特色ある祭ばやしや、神楽・唄などを上演しています。 事務局の松本さんは、「鎌倉の歴史遺産を後世に伝えていくことを目的としている世界遺産登録と、鎌倉の郷土芸能を後世に向けて保存していくことを目的としている当協会は、目的を同じにしています。今年も秋に『鎌倉郷土芸能大会』を開催する予定です。子どもから大人までが出演し、様々な郷土芸能や祭ばやしを披露しますので、ぜひお越しいただき、鎌倉に伝承されている郷土芸能や祭ばやしをご覧ください」と話していました。 お問い合わせは事務局(教育委員会文化財課内) (Tel.0467-61-3857)まで。
鎌倉の世界遺産の礎を築く
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一般社団法人 鎌倉同人会
鎌倉同人会は、1915年(大正4)に鎌倉最古の社会貢献団体として、外交官の陸奥広吉(父は陸奥宗光)や洋画家の黒田清輝ら各界で活躍している人々が設立し、住みやすい鎌倉のまちづくりを進めました。
鎌倉駅の改築、若宮大路の整備、寺社・史跡の保存、郵便局の建設、鎌倉国宝館の建設、関東大震災の復興支援など、行政が十分出来ないことも行い、今日の鎌倉の基礎を作りました。その際の活動は、現在の世界遺産候補の寺社・史跡等の復興・整備にも大きく貢献しています。 現在でも実朝忌の俳句大会、実朝公顕彰の歌会、栄西まつり、文化講座・歴史講座、映画会など鎌倉の文化発展に寄与する多彩な活動を続けています。 また、世界遺産につながる平和都市宣言や古都保存法成立の活動を行うとともに、鎌倉をはじめ、奈良・京都や全国の主要な文化財を空襲から守ったウォーナー博士の顕彰碑を建て、法要を続けています。 山内静夫理事長は「今後も鎌倉の文化を世界に発信したい」と語っていました。 古都鎌倉の世界遺産登録って なに?
第27回 史跡整備の現状
史跡整備は歴史的な遺産を永久に保存するとともに、その姿を目に見えるかたちで復元し、公開・活用に資することを目的にした事業です。
史跡整備は史跡指定後に保存管理計画の策定、指定地の公有地化等を経て実施されることが一般的です。 鎌倉市では市内にある31件の国指定史跡のうち、二階堂にある永福寺跡の整備を進めています。 永福寺跡は昭和41年6月14日付で史跡に指定され、翌年から土地の公有地化を進め、整備のための発掘調査が実施されました。発掘調査の結果、源頼朝が建立した永福寺の壮大な伽藍の遺構が明らかになりました。 発掘調査の成果に基づき、史跡の保存整備計画を策定し、二階堂、阿弥陀堂、薬師堂といった三堂の基壇や苑池をはじめとする庭園の整備を順次、進めています。現在は、園路が整備されている平場の部分を開放しています。 整備事業が順調に進むと、平成28年の春には史跡整備がほぼ完了し、市民の皆様に『史跡永福寺跡』として公開できる予定です。 Event! the 世界遺産
鎌倉の世界遺産と秘宝を訪ねる会主催・鎌倉世界遺産登録推進協議会後援
鎌倉宮・永福寺跡・瑞泉寺の秘宝と史跡を訪ねて
鎌倉宮では社殿・土牢・宝物殿を拝観、永福寺跡では一部復元された史跡を見学、 瑞泉寺では本堂を特別拝観、どこも苦地蔵、禅宗庭園を拝観します。 講師:内海恒雄さん(同会代表/鎌倉世界遺産登録推進協議会 広報部会長)
Watch! the 世界遺産
園路が整備されている平場部分については、芝の養生が終わり、開放されていますので、訪れてみてはいかがでしょうか。 平成25年度以降は苑池の復元整備を行い、平成28年4月から史跡永福寺跡として、公開する予定です。
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