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神社・寺院

神社

鶴岡八幡宮

鶴岡八幡宮
概 要

 鶴岡八幡宮は、武家政権の守護神として、鎌倉幕府から最も重要視された神社です。鎌倉幕府及び武家から篤く崇敬されたことに加え、神道と禅宗を両輪とする宗教政策上の中心的な施設として、幕府の公式行事が執り行われるなど、政治・儀礼の舞台としても重要な場所でした。

 また、海に面する鎌倉の正面中央の山裾に造営された鶴岡八幡宮は、まさに武家政権所在地の中心に当たり、要害的地形に積極的に働きかけて造営された鎌倉を象徴しています。

流鏑馬

流鏑馬

歴 史

 鶴岡八幡宮は、武家政権を樹立した源頼朝が鎌倉入りした1180年に、先祖の源頼義 が1063年に石清水八幡宮を由比郷に勧請したものを現在の位置に遷して造営したことに始まります。

 三ノ鳥居を入った東西に源平池を配し、東西に走る流鏑馬馬場の奥に下宮の摂社若宮、大石段を上った位置に本殿が配される現在の境内配置は、1191年の大火後の境内配置を基本的な姿として踏襲されてきたものであり、1591年に作成された『修営目論見絵図』及び1871年に作成された『鶴岡八幡宮境内絵図』に描かれた配置とほぼ一致します。

 鶴岡八幡宮は、鎌倉幕府滅亡後も、後続する足利、後北条、徳川などから武門の守護神として重視され、特に江戸幕府の将軍家である徳川家は、鎌倉を聖地として手厚く保護しました。1624年には、江戸幕府第2代将軍であった徳川秀忠(1579~1632年)によって上宮、若宮ともに規模や形式を一新した造替が行われ、その後も、焼失による再建や定期的な修造など、江戸時代を通じて江戸幕府による保護が継続されました。

 流鏑馬神事は、現在も武家文化の伝統を引き継ぐ行事として、毎年、境内において行われています。

 なお、上宮と摂社若宮が記念工作物として位置付けられています。





鎌倉市雪ノ下2-1-31

JR鎌倉駅東口から徒歩約10分

若宮大路

若宮大路

 若宮大路は、1182年に、源頼朝の妻である北条政子の安産祈願を兼ねて造られた鶴岡八幡宮の参道です。鶴岡八幡宮境内から海岸に向かって、約1.5㎞の長さで造られ、武家政権の所在地たる都市鎌倉の基本軸という性格も併せ持っていました。

 「段葛」と呼ばれる、中央部分の路面が石積みによって一段高く造られている二ノ鳥居以北が資産の範囲に含まれています。

荏柄天神社

荏柄天神社

拝殿(この後ろに本殿)

概 要

 荏柄天神社は、鶴岡八幡宮とともに、武家政権の正統性を保証する神社として重要視されました。背後の山稜部の裾をほぼ垂直に切り下げて造営された境内は、鎌倉における社寺境内の造成の特徴を示しています。

歴 史

 荏柄天神社の創建は1104年と伝えられます。源頼朝が鎌倉に入ると、新たに社殿を造営し、幕府の鬼門(北東)を鎮護する神として祀られました。江戸時代にも鶴岡八幡宮とともに江戸幕府の手厚い保護を受け、30~40年ごとの鶴岡八幡宮の修理・再建に併せ、修理が行われてきました。現存する本殿(重要文化財)は、1622年に江戸幕府第2代将軍徳川秀忠が資材・資金を下賜して行った大規模な修造の際に、鶴岡八幡宮若宮旧社殿を荏柄天神社に移したもので、14世紀に遡る建築物と考えられています。

鎌倉市二階堂74

JR鎌倉駅東口から徒歩約25分
JR鎌倉駅東口4番バス乗り場から「大塔宮」行きで「天神前」下車徒歩約1分

禅宗寺院

寿福寺

寿福寺

総門

概 要

 鶴岡八幡宮の西約0.5kmに位置する寿福寺は、源頼朝の父・義朝の館跡を選んで創建された鎌倉最初の禅宗寺院です。寿福寺の立地は、北方に亀ヶ谷坂と仮粧坂の2つの切通がある交通の要衝に当たり、切通の近辺に重要な寺院を配置する鎌倉幕府の意図が現れています。山稜部の裾を切り落として造成した切岸がよくその状況をとどめており、谷を大規模に開発し内部に伽藍を配置する鎌倉の社寺景観の特長をよく示しています。

歴 史

 寿福寺は、1200年に頼朝の妻・北条政子が、明庵栄西を開山に招き創建しました。栄西は、日本における臨済禅の祖であり、後に武家文化の重要な要素の一つとなる「茶」をわが国にもたらし、その効能を説いた『喫茶養生記』を著した人物です。

 当初は、密教的な要素の強い寺院でしたが、13世紀半ばに純粋な禅宗寺院となり、鎌倉時代末から南北朝時代にかけての時期には、15の塔頭を擁する寺院として大いに栄えました。その後、1395年及び1467年の火災により次第に衰退し、1790年の『寿福寺境内絵図』からは残る塔頭が4つであったことが知られます。1923年の関東大震災による被害からの復興を経て、現在にいたっています。

 境内には北条政子や源実朝の墓と伝えられる石塔が安置されたものなど、多数のやぐらが存在します。

鎌倉市扇ヶ谷1-17-1

JR鎌倉駅西口から徒歩約10分

境内は一般公開されていません。

建長寺

建長寺

山門

概 要

 鶴岡八幡宮から北へ約0.7㎞に位置する建長寺は、我が国に禅宗が定着する契機をなした最も重要な禅宗寺院です。鎌倉幕府による神道と禅宗を両輪とする宗教政策の中心であり、当時の中国文化受容の最大の拠点として、武家文化の成立と発展に大きく貢献しました。

 狭隘な谷間に営まれている現境内の主要伽藍は、谷戸開発の特徴を端的に示す直線状を呈すると同時に、後背山稜部と一体となった静寂な宗教空間を形成しており、鎌倉を代表する社寺景観を現出しています。

 建長寺が所在する山ノ内には、鎌倉の主要な出入り口である亀ヶ谷坂があり、鎌倉の交通上・防衛上の重要な箇所でした。建長寺は、切通と大寺院を機能的に配置する、鎌倉幕府の防御的な政権所在地の造営のあり方を端的に示す寺院でもあります。

 また、北東の尾根線付近には、朱垂木やぐら群が存在します。

建長寺境内絵図

建長寺境内絵図

建長寺伽藍指図

建長寺伽藍指図

歴 史

 建長寺は、1253年に鎌倉幕府第5代執権北条時頼によって、中国高僧蘭渓道隆を開山に迎え、わが国最初の禅宗専門道場として創建されました。鎌倉時代から室町時代 にかけての建長寺は、中国南宋五山に倣った、壮大な伽藍を構えた大禅宗寺院として威容を誇りました。このことは、1331年に作成された『建長寺伽藍指図』や発掘調査の成果から裏付けられています。

 建長寺は、度重なる火災や暴風によって伽藍の焼失、倒壊といった被害を受けていますが、その都度、鎌倉幕府や後続した武家政権によって復興が図られました。特に、江戸幕府は手厚い保護を実施し、1647年には芝増上寺からの唐門や仏殿の移築、1678年には徳川光圀による『建長寺境内絵図』の寄進の他、数次に及ぶ修造を援助しました。現在の主要伽藍は、この江戸幕府を中心とする修造によります。現在の境内は、谷開口部付近の総門から約100mの地点に壮大な山門を構え、そこから谷の中軸線に沿って中庭庭園、仏殿、法堂、方丈、方丈庭園等が直線上に配置されています。

 主要伽藍の東西の両脇、さらに北東へ谷が入り込む区域には多くの塔頭が営まれていますが、特に中庭庭園から南東に入る小谷には開山を祀る西来庵に昭堂と大覚禅師塔が設けられ、この一画では、現在も厳しい禅僧の修行が続けられています。

 なお、境内には庭園と、記念工作物としての山門、仏殿、法堂、昭堂、大覚禅師塔の他、朱垂木やぐら群が含まれています。

鎌倉市山ノ内8

JR北鎌倉駅から鎌倉駅方面に向かって徒歩約20分
バス停「北鎌倉」から鎌倉駅方面行きで「建長寺」下車徒歩約1分
JR鎌倉駅東口から北鎌倉に向かって徒歩約30分
JR鎌倉駅東口2番バス乗り場から「大船駅」行きで「建長寺」下車徒歩約1分

昭堂、大覚禅師塔は非公開です。

円覚寺

円覚寺

舎利殿

概 要

 鶴岡八幡宮から北西約1.7㎞に位置する円覚寺は、建長寺と並んで我が国に禅宗が定着する契機をなした最も重要な禅宗寺院であるとともに、鎌倉幕府による神道と禅宗を両輪とする宗教政策の中心であり、当時の中国文化受容の最大の拠点として、武家文化の成立と発展に大きく貢献しました。

 狭隘な谷戸をひな壇状に造成して主要伽藍を直線上に配置していることや、後背の丘陵部と一体となって形成されている静寂な宗教空間は、鎌倉の社寺景観を代表しています。また、建長寺とともに、鎌倉の交通上また防衛上の重要な箇所に配置された円覚寺は、鎌倉幕府の防御的な政権所在地の造営のあり方を端的に示しています。

円覚寺境内絵図

円覚寺境内絵図

円覚寺

妙香池

歴 史

 円覚寺は、1282年、中国人渡来僧である無学祖元を開山として、第8代執権北条時宗によって、鎮護国家及びモンゴル襲来時の犠牲者を敵味方の区別なく弔うため建立されました。

 円覚寺は、鎌倉幕府の庇護の下に境内整備が進められ、鎌倉幕府滅亡後も室町幕府等の時の権力者の保護を受け、14世紀前半には、大伽藍を備えた最盛期を迎えました。当時の状況を描く『円覚寺境内絵図』(1333~1335年頃)によれば、主要伽藍が中軸線上に並び、建長寺と同様に中国禅宗寺院を模して造営されたことが明らかです。江戸時代には江戸幕府の保護による伽藍の復興が進められ、18世紀後半には現在の寺容が整備されました。近代以降は、円覚寺が中心となって、在家者に対する布教活動を盛んに進め、19世紀末から20世紀にかけては、鈴木大拙などが欧米に禅を普及するなど、世界への発信に大きく貢献しました。

 現在の境内は、北東方向へ約500m入り込む谷戸の入り口横に白鷺池、そこから一段高くなった位置に総門を構えます。総門から約300mの間のひな壇状に造成された境内には、諸伽藍及び妙香池が直線上に配置されています。また、総門の北東約350mの位置、東西側及び北側に迫る山稜部の裾を切り下げた空間には、舎利殿が所在します。

 舎利殿のある一画では、現在も厳しい禅僧の修業が続けられています。さらに、主要伽藍を囲むように周辺には現在も多くの塔頭が営まれています。

 なお、境内には庭園と、記念工作物として舎利殿が含まれています。

鎌倉市山ノ内409

JR北鎌倉駅から徒歩約1分
JR鎌倉駅東口2番バス乗り場から「大船駅」行きで「北鎌倉」下車徒歩約2分

瑞泉寺

瑞泉寺

庭園

概 要

 鶴岡八幡宮の東北約1.8㎞に位置する瑞泉寺は、狭隘な谷を造成して構成された鎌倉における寺院境内の典型で、境内に禅宗庭園初期の完成形と評価できる庭園を有しています。

歴 史

 瑞泉寺は、1327年に日本人禅僧の夢窓疎石によって開かれた寺院です。

 鎌倉時代末から南北朝期にかけて活躍した夢窓は、幕府、朝廷双方から帰依され、禅宗が国家権力による公認を得ることに貢献するとともに、京都において傑作と評価される多くの庭園を残しました。

 鎌倉幕府滅亡後の瑞泉寺は、室町幕府の関東支配の拠点である鎌倉公方の菩提寺として栄え、14世紀後半には10以上の塔頭を擁する大禅宗寺院の体裁を整え最盛期を迎えますが、1439年の「永享の乱」による兵火を被り、次第に寺勢は衰えました。江戸時代以降は、円覚寺派に属して寺勢を保ち、現在にいたっています。

鎌倉市二階堂710

JR鎌倉駅東口4番バス乗り場から「大塔宮」行き終点下車徒歩約15分

鎌倉大仏

鎌倉大仏

鎌倉大仏 大仏殿の礎石

大仏殿の礎石

概 要

 鎌倉大仏は、鎌倉幕府と民衆の安寧を願う鎮護国家思想に基づき、武家政権の象徴及び守護仏として、幕府主導で造立された銅造阿弥陀如来坐像です。大仏の像高は約11.5mにもなり、そこに表現された造形の逞しく力強い美しさは、武家や武家文化の力強さを表しています。大仏の造形には、中国の宋朝様式の影響を受けつつも、それを日本風に改良した意匠が認められます。また、鋳造技術にも優れた技法が用いられており、中世の卓越した鋳造技術と造形美を今に伝えています。

歴 史

 鎌倉大仏は、『吾妻鏡』などの文献資料によれば、幕府の関与の下、1252年に鋳造が開始され、遅くとも1264年には完成していました。1268年までには大仏殿も完成し、「大仏殿」と称する寺院であったと推測されます。

 大仏殿は1334年に倒壊し、その後も地震や津波の被害による再建・倒壊を繰り返しましたが、1498年の倒壊を最後に再建されることはなく、これ以降、大仏は露坐となりました。

 1703年の大地震では大仏の台座が崩れ、像身も傾いたとされますが、翌年には台座の修復がなされています。その後も数次の災害に耐え、約700年間に渡って造立当時の姿を今に留めています。現在の寺院は、1712年に江戸の豪商の喜捨を受け、芝増上寺第36世の祐天上人によって、高徳院として再興されたものです。

 1923年の関東大震災や翌年の地震により台座が破壊されましたが、1924年から翌年にかけて修復されました。1959~1961年には、頸部補強と免震処置を主目的とする修理が行われました。1958年に国宝に指定されました。

鎌倉市長谷4-2-28(高徳院)

江ノ島電鉄長谷駅から徒歩約10分
JR鎌倉駅東口1番・6番バス乗り場から大仏方面行きで「大仏前」下車徒歩約1分
JR鎌倉駅西口から徒歩約30分

北条氏ゆかりの寺院

覚園寺

覚園寺

薬師堂

概 要

 鶴岡八幡宮から東約1.2㎞に位置する覚園寺は、狭隘な谷を造成して境内地を確保し、山稜部と一体となった静寂な宗教空間が形成された鎌倉の社寺景観の典型です。現在の境内も、境内奥から後背の山稜頂部(標高100メートル以上)までが連続し、全体が山稜部の裾を切り落として谷を広げた状況をよくとどめており、鎌倉の寺院の中でも最も幽玄かつ静寂な宗教空間の特徴を保持しています。背後の山稜部には、百八やぐら群が存在します。

 覚園寺は、当時の仏教教学研究の中心的寺院の一つであり、武家の精神修養や、学問・教養の取得の場ともなり、重要な文化的諸要素の醸成の場となった寺院です。

歴 史

 覚園寺は、1218年に第2代執権北条義時が建てた薬師堂を、1296年に第9代執権北条貞時が元の討滅を祈願して諸宗兼学の寺院に整備したものです。創建当初は、多くの建物を備えた大規模かつ荘厳な寺観を呈していました。

 現在の境内は、谷の最奥に奥行約380m、最大幅約50m程の間に営まれています。境内には、薬師堂の他各種の建物が建ち、境内最奥部には大型宝篋印塔の開山塔及び大燈塔(1332年建立、重要文化財)他、歴代住持の墓塔が安置され寺院の聖域を形成しています。

鎌倉市二階堂421

JR鎌倉駅東口4番バス乗り場から「大塔宮」行き終点下車徒歩約8分

10:00 11:00 12:00 13:00 14:00 15:00(土日祝日のみ) 雨天時・8月・12/20~1/7は拝観中止

開山塔、大燈塔、百八やぐらは非公開です。

浄光明寺

浄光明寺 客殿

客殿

切岸

切岸(非公開)

浄光明寺敷地絵図

浄光明寺敷地絵図

概 要

 鶴岡八幡宮から北西約0.5㎞、仮粧坂の東約0.5㎞、亀ヶ谷坂の南南東約0.3㎞に位置する浄光明寺は、鎌倉の北西を開析する扇ガ谷の一画にあたり、鎌倉の交通上及び防御上の最も重要な地域に営まれた寺院であり、切通の近辺に重要な寺院を配置する鎌倉幕府の意図が現れています。現在の境内も、山稜部の裾を切り落として造成した切岸がよくその状況をとどめており、谷戸を開発し内部に伽藍を配する鎌倉の社寺景観の特長をよく示しています。

 浄光明寺は、浄土・華厳・真言・律・天台・禅等諸宗の兼学道場として、当時の仏教教学研究の中心的寺院の一つであり、武家の精神修養や、学問・教養の取得の場ともなり、重要な文化的諸要素の醸成の場となった寺院です。

歴 史

 浄光明寺は、1251年に第5代執権北条時頼と第6代執権長時の発願により、真聖国師真阿を開山、長時を開基として創建されました。

 鎌倉幕府滅亡直後の1333~1335年頃に描かれた『浄光明寺敷地絵図』によれば、狭隘な谷を造成した中に諸伽藍が、その外側には第16代執権北条守時など北条氏関係の館跡等が描かれており、北条氏の屋敷地内あるいはその近隣で行った寺院造営の状況がよく理解されます。

 浄光明寺は、鎌倉時代及びその後も時の権力者を通じて寺勢を保ち、度重なる火災や震災を経ながら、現在まで法統を伝えてきました。特に足利氏との関係が深く、足利尊氏・直義の帰依を受けました。また、室町時代には鎌倉公方の保護を受け、足利基氏・氏満の分骨を祀るなど、足利氏の菩提寺の一つとなりました。

 境内背後の山稜部は、北へ向かって三段の平場が造成されており、阿弥陀堂や歴代住持等の墓地及び多くのやぐらが営まれており、標高約40mの最上段付近には、冷泉為相墓が存在しています。

鎌倉市扇ガ谷2-12-1

JR鎌倉駅西口から徒歩約15分

極楽寺

極楽寺

山門

概 要

 鶴岡八幡宮から南西約2.9㎞に所在する極楽寺は、鎌倉から京都方面へ向かう交通上また防衛上の重要な箇所に配置され、鎌倉幕府の防御的な政権所在地の造営のあり方を端的に示す寺院です。

 開山である日本人律宗僧忍性は、布教活動を行うとともに、極楽寺を拠点に弱者・貧民救済の慈善事業や、数多くの道路や橋の建設及び井戸の掘削などの土木事業にも力を注ぎました。その功績により極楽寺は、和賀江嶋の管理・徴税などの権利を幕府から与えられるなど、鎌倉幕府において重要な役割を果たしました。

歴 史

 極楽寺は、1259年、第5代執権北条時頼の補佐を行うなど幕府内で重きをなした北条重時によって創建されました。創建当初から鎌倉幕府の保護の下に寺勢をふるいましたが、鎌倉時代以降も朝廷や歴代武家政権から保護を受けました。

 17世紀中頃に描かれた『極楽寺旧境内絵図』には、仏法寺を含めた盛時の壮大な伽藍が描かれています。西側の山稜部の裾には、開山の忍性の墓塔をはじめ大型の五輪塔が安置されています。

鎌倉市極楽寺3-6-7

江ノ島電鉄極楽寺駅から徒歩約2分

忍性墓は通常非公開で、4月8日のみ一般公開されます。

仏法寺跡 ※現在非公開

 極楽寺の南東約0.4㎞の山稜部を挟んだ東向き斜面中腹に位置する仏法寺跡は、極楽寺の子院跡の考古学的遺跡です。その東側に鎌倉の海岸地帯から和賀江嶋及び三浦半島を一望できる立地は、交通の要衝を抑え、和賀江嶋の徴税権を行使した極楽寺の拠点的役割を果たしたことを物語っています。

称名寺

称名寺
概 要

 金沢は、鎌倉の外港である六浦を抱え、東京湾を介した交通・軍事上の要衝、すなわち鎌倉の東の要衝であり、そこに重要な拠点として営まれた称名寺は、防御を重視した鎌倉幕府の政権所在地の造営の在り方の特徴を示す寺院です。

 また、当時の称名寺は仏教教学の研究がとりわけ盛んに行われ、「金沢学校」とも呼ばれた日本における中世の大学でした。さらに、1275年に、称名寺に設置された「金沢文庫」には、教学研究のために収集された大量の文物が引き継がれています。これらは、中国伝来の美術工芸品、書籍、典籍類を主体としており、武家文化の成立に中国文化が重要な影響を及ぼしたことを示すとともに、武家文化の精華を現在に伝えています。

称名寺絵図

称名寺絵図

歴 史

 称名寺は、第5代執権北条時頼や第8代執権北条時宗の補佐役として幕府内部で重きをなした北条実時(1224~1276年)が営んだ持仏堂が始まりで、1267年に寺院としての体裁を整え、鎌倉時代末に実時の孫金沢貞顕(1278~1333年)によって伽藍や庭園が再造営され最盛期を迎えました。その様子を描いた『称名寺絵図並結界記』によれば、境内の中央に浄土池を配し、東西及び北に金堂や講堂他の諸堂が建ち並ぶ大伽藍が形成されていました。

 現在の境内は、山門の正面に浄土池を中心とした庭園を配し、その北側に諸伽藍が並んでいます。これらの建物の北方及び浄土池の東西には、講堂他の伽藍が営まれていた平場が展開し、それらの外側は周囲の山稜部へと連続しています。

 なお、前述の「金沢文庫」に引き継がれた大量の文物は、現在、境内に隣接する「神奈川県立金沢文庫」において、厳重に保管されるとともに、活発な調査研究及び積極的な公開活用が図られています。

横浜市金沢区金沢町212-1

京浜急行金沢文庫駅東口から徒歩約15分
京浜急行金沢文庫駅東口4番バス乗り場から「柴町」行きで「称名寺」下車すぐ
金沢シーサイドライン「海の公園柴口」駅から徒歩約15分

駐車場はありません。